を外にして、なお認識の客観的な規準となることが出来る。真理概念はかくて客観的なもの[#「客観的なもの」に傍点]に関して規定されることが出来る。処がこういう意味での客観的真理は、イェルザレムによれば一つの社会的凝結[#「社会的凝結」に傍点]に外ならない、ここでは知識の個人的要素が全く社会的要素に吸収されて了っているだろう。処でこの社会的凝結から次第に解き放されることによって個人化して行くことこそ、人間の知識の発達だったのだから――前を見よ――、真理のこの客観的な概念はやがてその主観的な概念をも産むようになる。カントの「思惟必然性」などは之に他ならない。併しながらこういう主観的な真理概念の危険は、結局世界の客観的存在の否定を結果する処に横たわる、それは一切のものとの一致を感受しようと欲する審美的[#「審美的」に傍点]・観念的[#「観念的」に傍点]な人格に適わしい真理概念ででもあろう。真理は併しその麗わしさにではなくて「仕事」の内にこそある筈である、真理は行動のための指針である。――真理概念はかくて、知識社会学が説明し得又説明しなければならない問題となって、イェルザレムの前に現われる**。
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* イェルザレムの実証主義的真理概念には、多分の実用主義的・思惟経済主義的・痕跡が潜んでいる。彼の社会学的な見方が生物学的な見方に支配される限り、そうなのである(行動の概念も亦そうである、――後を見よ)。
** Soziologie des Erkennens, S. 150 ff. 参照。
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 真理[#「真理」に傍点]の概念を(行動によって)実証主義的に問題とすることは、デュルケム達の知識社会学がイェルザレムの夫に一歩を譲らねばならない点である。何故なら、イェルザレムは茲でカントに代わって、そして又デュルケムに代わって、論理的アプリオリを問題として提出し得たからである*。先にコント知識社会学の歴史的段階[#「歴史的段階」に傍点]の原理を再生したように見えたイェルザレムは、今度は又コントに於ける真理[#「真理」に傍点]―虚偽[#「虚偽」に傍点]の論理[#「論理」に傍点]の問題を、とに角復原したかのように見える。
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* 彼は自分の知識社会学の課題を「人間理性の社会学的批判」と呼ん
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