蜍`的な『社会学的認識論』を継承し、之を或る意味で拡張・補足しようとしたものは、W・イェルザレムの『認識社会学』である。
デュルケムがカントのアプリオリ主義的な認識論に代わるべきものとして提出した社会学的認識論は、到底論理的アプリオリの説明にはなり得ない、デュルケム自身は之によってアプリオリ主義と経験論との長所を総合したかのように考えていても、アプリオリ主義に対するかかる譲歩は、ただアプリオリ主義の精神を誤解することによってしか行なわれるものではない、とそうイェルザレムは考える。アプリオリ主義にとって問題になるのは範疇の妥当性の問題であってその発生の問題なのではないが、デュルケムがあそこで解いた処は正にこの発生の問題でしかなかった、そうイェルザレムは考える。で、イェルザレムによれば、デュルケム及び其の派の人々の研究に於て、真に独創的にして意味ある部分は寧ろ、認識を理解するためには、認識過程の歴史[#「歴史」に傍点]を学ばねばならぬ、ということを実証的に証明したという点にあったのである。併しすでに吾々も見たように、この点はまだ必ずしも彼等によって徹底されたとは云われない。何故ならデュルケム達が明らかにしたのは、単に認識[#「認識」に傍点]がその歴史的発展過程に於て見られねばならないということにしかすぎず、その発展過程がどのような特定[#「特定」に傍点]の方向に向って行なわれるかをまだ必ずしも説明していなかったからである*。之に反して、イェルザレムに於てはこうである。人間の思惟は「社会的凝結」を以て始まる。人間は初め全く、その生活を従って又その精神を、社会によって束縛されたものとして有っていた。そこで、人間生活が群畜生活を抜け出す時初めて、社会的分化によって独立な人格が出来上る時初めて、人間はこの社会的凝結を抜け出て、事実と法則との客観的な認識を有つことが出来るようになるのである**。人間が社会的な束縛から解き放たれることによって初めて人々は理論的に物を考えることを学び、従ってこの時初めて凡そ科学なるものも成り立つことが出来る。このようにして社会的束縛から解き放たれることは併しながら、人間が孤立[#「孤立」に傍点]することを意味するのではない、人間は、個人的な独立[#「個人的な独立」に傍点]を得ることによってこそ、却って初めてコスモポリタン[#「コスモポリタン」に傍点
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