それは理論や科学の核心にまで、論理[#「論理」に傍点]の構成要素(範疇・概念)にまで、突き進む。かくて、論理[#「論理」に傍点]が社会的[#「社会的」に傍点]に説明しつくされるかのようである。――だがこの論理はまだ本来の論理ではなく、この社会はまだ本当の社会ではない。何故か。
 範疇乃至概念は、それ自身に於ては真理[#「真理」に傍点]でもなく虚偽[#「虚偽」に傍点]でもない、形式論理学に於ても真偽は判断まで来て初めて問題となる。範疇や概念自身は論理的に無記であることを一応人々は承認すべきだ。そうすれば範疇乃至概念は、確かに論理の要素であるにも拘らずそれ自身では論理的[#「論理的」に傍点]ではない、蓋し論理は価値に関わる、その価値が真理と虚偽とであった。であるから、範疇が社会的に決定されると云っただけでは、又は、それを基礎にして多少の展開を与えたとしてもそれだけでは、まだ本来の「論理[#「論理」に傍点]」が「社会[#「社会」に傍点]」的に決定されるということにはならないわけである。併し、もっと悪いことには、この「社会」すらがまだ社会ではない。なぜなら、社会の実質は歴史[#「歴史」に傍点]にあった筈だが、今は恰もこの歴史が結局、原理としては排斥されていた、優れた歴史的原理としての段階性は不問に付せられていた、からである。――人々は茲でも亦見るべきである、歴史的原理の不足は論理[#「論理」に傍点]の問題の不足を意味することを。
 単なる論理は真理と虚偽との論理的価値対立にまで、そして単なる社会は歴史的社会階級対立にまで、掘り下げられねばならない。それは論理及び社会という概念から云って已むを得ないことなのである。そうしなければ知識社会学の中核的な課題は掴めないのである。社会学的認識論は半途の知識社会学でしかない*。実際、そのことは、社会学的認識論のイデオロギー論からの逃避となって現われた。
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* デュルケムのテーマを広範に展開したものとして少くとも 〔Le'vy Bruhl〕 の名を挙げておくべきである(〔Les fonctions mentales dans les socie'te's infe'rieures〕 及び 〔La mentalite' primitive〕 其他を見よ)。
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 デュルケムの実証
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