「教養の知識」である形而上学に、そしてこの形而上学は又「救済の知識」である宗教に、奉仕しなければならない(前を見よ)。労働は教養に、教養は信仰に、奉仕せねばならぬ。労働者は市民に、市民は僧侶に、奉仕せねばならぬ。それに対応して物質的な歴史社会[#「物質的な歴史社会」に傍点]は人格的個人[#「人格的個人」に傍点]に、人格的個人は絶対的神[#「絶対的神」に傍点]に、その概念の高貴の度に於て、カトリック風な教職段階をなして下属する。神に於ては一切のものは永遠[#「永遠」に傍点]の相の下にあるであろう、かの歴史的原理[#「歴史的原理」に傍点]の如きは悪魔である。真理[#「真理」に傍点]はこの悪魔に渡されてはならない。だから真理は歴史的原理によって支配されてはならないのである。
シェーラーの所謂「知識社会学」――彼によって初めて本当のものとなったという――を吾々は今や、知識社会学の中心的な課題から特色づけることが出来る*。
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* シェーラーは知識社会学の問題として次のようなものを列挙する。一、科学が如何にして「文化的精髄を持ち」得るか。二、科学に於て何が文化的精髄を持ち、之に反して何がそのような特殊の表示形態から独立して「真なるもの」であるか。三、如何なる科学が共働作用を許すか、インターナショナルであり得るか、そしてどのようなものがそうでないか。四、如何なる科学とその科学の如何なる部分が民族文化が亡びても残るか(〔Scheler, U:ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens.〕)。――併し問題は羅列されることを許さない、必ず中心的な問題がある筈である。
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知識の社会学に於て、吾々は二つの概念の結び付きを見る。知識と社会。この二つが結び付くには併し二つの概念は夫々特有な特別な規定を与えられて来なければならない。まず知識の方は単なる知識としてではなくて一つの社会的存在としての知識となる。処が社会は又単なる社会ではなくて歴史社会でなければならない。そこで知識は、社会に於て歴史的に発展すべきものとして、問題とならざるを得ない。それは歴史的に変化する一つの社会的存在[#「社会的存在」に傍点]である。だが知識はそれが知識であるからには単に変化
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