史的に与えられた特殊の体験の、解明・基礎づけ・擁護・ではないか。ただその特殊な体験というのが、必ずしも宗教的な信仰ではないというまでである。而もそれすらが殆んど凡ての場合宗教的ではないだろうか。人々は今日、一切の形而上学[#「形而上学」に傍点]に神学[#「神学」に傍点]を見出すことが出来はしないか*。――そしてシェーラー自身がその好い一例に外ならなかった。
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* コントの所謂三段階説は、実は二段階説なのである。何故なら、人間の知識は神学的な段階から実証的な段階に移行するというのがコントの根本的な思想なのであって、ただ之が一遍で移行出来ないために、中間の過渡期として、形而上学的な段階が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入されるに過ぎないから。――それ故コントにとっても、形而上学とは、実証科学に成り切れない内の神学的残滓を意味するわけである。こう考えて見ても、形而上学の内に神学が見出されるのは当然である。
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 吾々はかくて宗教を知識の内から追放する。宗教は――それが原始的な知識[#「原始的な知識」に傍点]でない限り――知識社会学にはぞくさない。――残る問題は、形而上学[#「形而上学」に傍点](又は哲学)と科学[#「科学」に傍点](実証科学が之を代表する)との関係に横たわる。

 形而上学(シェーラーは茲で優越なる意味での哲学一般を意味せしめる)と実証科学、哲学と科学、は無論絶対的には一つではない。両者はたしかに一応の区別を有つ。前者が体系[#「体系」に傍点]の内に安定し、後者が累積的進歩[#「累積的進歩」に傍点]の道をたえず追っているという、シェーラーの指摘は必ずしも誤ってはいない。実際例えばプラトンの哲学は古典として今日に至るまでたえず人々を――夫に同情する人々をもそれに反対する人々をも――支配している、哲学に於て単なる「死せる犬」は存在しない。自分自身で哲学的に物を考える時、このことは何人にとっても証明されることだろう。而も之は、例えばガリレイの自然科学が古典として有っているのとは非常に異った[#「非常に異った」に傍点]意味を有っていることも確かである。――けれども両者のこの相違、この区別は絶対的[#「絶対的」に傍点]なのではない、二つのものの間には動的な媒介がな
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