る。
だが、どの問題提出の仕方の方がより正当であるかは、外でもない、理論家がどの問題を自分自身[#「自分自身」に傍点]にとっての問題として提出し得またせねばならぬような、社会的[#「社会的」に傍点]・客観的[#「客観的」に傍点]・状勢の下におかれているか、によって決まるわけである。問題提出は全く社会階級の利害[#「社会階級の利害」に傍点]から決定される。――だが階級的利害は階級的主観[#「主観」に傍点]の利害にしか過ぎないから、そう云っただけではこの利害によって決定された問題提出形態の正当さを証明するには足りない。必要なことは、一定の階級の主観的な利害が、他の対立階級の利害とは反対に、歴史的社会の運動法則[#「運動法則」に傍点]の客観的な[#「客観的な」に傍点]物的・論理的・必然性と一致せねばならぬという点である。処が唯物史観が与える公式によれば、プロレタリアこそこうした――その主観的利害が客観的な必然性と一致する――階級なのである。
そこでこういうことになる。プロレタリア階級はブルジョアジーとは異って、正当な[#「正当な」に傍点]問題提出を端初とすることによって、正当な[#「正当な」に傍点]理論構成を遂行することが出来る。そういうことが出来る[#「出来る」に傍点]ということは併し、全くプロレタリアの歴史的社会的な必然的な位置から来るに外ならない。プロレタリア階級は一般に、ブルジョアジーとは異って、真理の体系に到達出来る[#「出来る」に傍点]客観的な事情の下に置かれている、この階級は真理をより容易に[#「より容易に」に傍点]発見することが出来る。処がブルジョアジーは一般に、真理の体系に到達することが終局に於ては不可能[#「終局に於ては不可能」に傍点]なような客観的事情に立つから、真理を発見することがより困難[#「より困難」に傍点]であり、発見された真理にもおのずから一定の制限[#「一定の制限」に傍点]がなくてはならない。――之を歴史的[#「歴史的」に傍点]に云い表わせば、前者による社会科学はかくて、進歩の可能性[#「進歩の可能性」に傍点]を含み、後者によるそれは行きづまり[#「行きづまり」に傍点]――危機や停滞――の宿命を持っている、と云うことになる。以上が社会科学のイデオロギー性、階級性の一般的な輪郭である。
どの科学を取って見ても、社会科学に於て程、ブ
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