ツ人――を超えて一定形態を保つことが出来る、というのである。
自我とか精神とかいう何か意識の担い手を意識と呼ぶのではなくて――だが哲学では大抵それを意識と考える――、意識現象の一定内容を意識と考えるならば、意識は当然意識以外の存在[#「意識以外の存在」に傍点]に依存せねばならぬという必然性が出て来るのである。
でこういう理由からすれば、別に何の形而上学的範疇*――例えば純粋自我・純粋意識其他に関する処のもの――の手を借りなくても、而もより決定的に、意識の概念は個人――意識の担い手・主体――を超えて理解出来るし、また理解されねばならぬ。こうして得られた意識の概念こそ、本当の――形而上学的範疇を借りない処の――超個人的意識[#「超個人的意識」に傍点]である。従来の哲学に於ける所謂超個人的意識――純粋意識・意識一般・絶体意識・等々――は、なおまだ、超個人的に考えられることを強制された個人的意識[#「個人的意識」に傍点]に過ぎなかった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 普通、哲学概論式な概念によれば、形而上学的[#「形而上学的」に傍点]とは「認識論的[#「認識論的」に傍点]」又は「現象学的[#「現象学的」に傍点]」に対立する。だが吾々によれば、単に存在の意味の解釈[#「存在の意味の解釈」に傍点]を与えることに終始し、従って存在の意味の秩序を以て存在そのものの秩序と思い誤る処の、理論的方法が、形而上学的である。
[#ここで字下げ終わり]
併し有力なそして又実際尊重すべき従来の観念論の或るものによれば、意識の概念はすでに略々今云った意味に近い点にまで引き寄せられていないのではない。超個人的意識は歴史的意識[#「歴史的意識」に傍点]として、個人を超越せしめられる。歴史を遍歴する処の理念[#「理念」に傍点]として、歴史的伝統の主体である精神[#「精神」に傍点](例えば客観的精神[#「客観的精神」に傍点])として、又歴史的理性[#「歴史的理性」に傍点]として、――人々はヘーゲルやディルタイ等を考えるべきだ――、それは鮮かに[#「鮮かに」に傍点]個人を超越する。例えばフィヒテに於ける(個人の)経験的意識から純粋自我の超個人的な(?)意識への超越は、決してこのように鮮か[#「鮮か」に傍点]ではない。と云うのは後者の場合に於ては、その所謂超個人的意識が、個人の意識から
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