って、個人の意識の外に横たわるにも拘らず依然として個人的意識[#「意識」に傍点]の概念に依っていることを免れない。
哲学者――実は観念論者――は好んで意識の超個人性[#「超個人性」に傍点]を又は超意識性[#「超意識性」に傍点]をさえ主張するが、そうした主張は、自分が観念論者乃至超観念論的観念論者であることを証拠立てているまでであって、却って皮肉にも意識概念の個人性を、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]見解を、暴露しているに過ぎない。
かくて哲学と云わず科学(今は特に心理学)と云わず、従来、観念論の組織の上に立ち又は之と友誼関係を結んでいる諸体系にとって、意識とは個人的意識[#「個人的意識」に傍点]の謂だったのである。意識は全く意識主義的[#「意識主義的」に傍点]に、個人主義的[#「個人主義的」に傍点]に、だがそれは結局観念論的[#「観念論的」に傍点]に、しか取り扱われなかった(以上の意識の概念に就いては、第六章に詳しい)。
こういう取り扱い方によれば、意識の問題は、意識そのものを道具としてしか解決出来ない、意識を説明するものは意識自身である。意識は最後のもので最初のものだ、ということになる。――では併し、意識と他の諸存在との関係――意識も亦一種の存在 Bewusstsein であるが――との関係はどうやって与えられるか。意識乃至観念が凡てである(尤もこの場合意識乃至観念の概念は色々に都合好く偽装してではあるが)、では他の諸存在はどうなったか。それこそは観念論者に聞くがいい。
だが意識は決して、単なる意識としてあるのではなくて、何物かの意識[#「何物かの意識」に傍点]としてしかないのである。或る形の観念論の主張に従って、一切の存在が意識として初めて、意識されることによって初めて、存在出来るというならば、それだけ却って一層、一切の意識は何物かの意識だということにならなければならぬ。併しそうすると、意識はもはや意識として独立する[#「意識として独立する」に傍点]ものとしては意味を失うのであって、却って意識は或る意味に於て他の存在に依存[#「依存」に傍点]せねばならぬということになる。と云うのは、仮に意識を担うと考えられる主体――個人――が転変しようとも、一定の意識を形づくる処の存在そのものは転変しないかも知れず、従ってその意味に於て意識の内容は意識の主体――
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