ナ陋な意識による回り道と繰り返しと重複とを通して、エネルギーを無統制に浪費せざるを得ない。同様に又ブルジョア・ジャーナリズム哲学はアカデミズムの基本的な訓練を[#「訓練を」は底本では「馴練を」]獲得する機会を有たないので、永久にその俗流性を脱することが出来ないから、諸説が切り合う整理点に到着することが出来ない。こうやってブルジョア哲学は、無意味な見渡し難い程の雑多な対立を引き起こす。このことは併しブルジョア哲学者が信じるような豊富な個性や独創を意味するのではない、全くその反対なのである。
 ソヴェート連邦に於ける哲学は、イデオロギー一般のジャーナリズム的契機とアカデミズム的契機との有機的連関の故に、ただ一つのマルクス主義哲学――唯物弁証法の哲学――がアカデミカルでありながら而もそれの大衆化[#「大衆化」に傍点]――それが本当のジャーナリズムだ――を見失うことなく、追究され得る与件を持っている。恐らくこうした形の研究に於てこそ、個性や独創も組織的に活用され得るだろう*。
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* 拙稿「ソヴェート連邦の哲学」(『新ロシヤ』第三号)【本全集第三巻所収】参照。――なおその国に於けるアカデミズムとジャーナリズムとの積極的な結合は、ソヴェート連邦の新聞の諸機能を見ると判る。そこではニュースとテキストとが積極的に結合されているのが特色である。
[#ここで字下げ終わり]

[#3字下げ]二[#「二」は小見出し]

 数学に於けるイデオロギーに就いて。――数学は最も抽象的な科学だと考えられる、というのは、夫が第一に存在から最も離れており、従って又歴史的社会的制約を蒙ることが一等少ないと考えられる。多くの人々にとっては例えば数学の階級性などはあり得ない。7に5を加えれば12[#「12」は縦中横]になるという関係は、プロレタリアにとってもブルジョアに取っても変らない真理だ、と人々は云うのである。で数学自身には――数学の応用や歴史はどうか知らないが――イデオロギーなどはあり得ない、と人々は考える。
 それは一応そうである、ここかしこに無限に見出される数学の部分々々に就いては確かにそうである。だが、それで凡ての関係が竭くされるのではない。――数学に於ける根本概念=範疇は云うまでもなく他の諸科学の範疇と連帯関係になくてはなるまい、就中哲学的諸範疇と一定の
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