閧フ変装[#「変装」に傍点]である。或る理論に就いて普通それの問題であるとして与えられている問題形態は勿論のこと、その理論の創始者によってその理論の問題として言明されているものすら、往々にして実は変装されたる問題形態に外ならないことがある。或る理論の真の問題は何か、何が問題であるのか――問題の決定――は人々がその理論に就いて何を問題として選択するかに帰着する(問題の選択に就いては次を見よ)。
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 さてこのようなものが吾々の、立場の批判[#「立場の批判」に傍点]である。自己の立っている立場が立場として成り立つか成り立たないかを、それは批判するのではない。そうではなくして、一般に立場なる概念が理論に於て、どのような権利を与えられて好いものか、に対する批判でそれはあった。立場一般が批判されるべきであった。
 立場の批判としての問題の理論は、最後に、問題の選択[#「問題の選択」に傍点]に就いて分析を施すことを必要とする。それなくしては恐らく人々は問題が立場に優越する所以を根本的に承認するに躇らうであろう。
 理論の目的は問題の解決[#「問題の解決」に傍点]にある。問題を解決し得ない理論は少くとも理論ではない。それであるから理論の根本的な価値は、それが如何なる問題を有つかに在る。問題の選択[#「問題の選択」に傍点]が理論の価値を根本的に決定する。立場や体系や又方法がそれを決定するのでは必ずしもない。何となれば如何なる問題を取るかによって、夫々の立場や体系や又方法が直ちに決って来るのであるから。問題の選択が理論の(又学問の)原始であり原理である。理論にとっては常に、問題の問題[#「問題の問題」に傍点]が、先ず第一にあるのである。
 問題は如何に選択されるべきか。絶対的問題は存在しなかった[#「絶対的問題は存在しなかった」に傍点]ことを注意しよう。絶対的問題が成り立つのは立場からであって問題からではなかったから――前を見よ。吾々が是非とも常に其から選択を始めなければならないような、又は必ずそれに終局は帰着すべきであるようなそのような、問題はあり得ない。というのは、諸問題の間に、価値の自然的――非歴史的――秩序はない、というのである。常に必ず某問題は高く、某問題は卑しい、と考えることは許されない。例えば精神なる問題は高貴であり、之に反して物質という問題は卑賤である、と考えられる理由は問題の概念それ自身からは、何処にもない。之は吾々の今までの分析から必然である。もしそれにも拘らず人々がそのような意識を知らず知らずにせよ持つならば、そこに支配しているものは理論ではない。何となれば理論ならば問題であるべく、問題であるなら相対的問題しかない筈であったから。そうではなくしてそこに支配するものは理論以外のもの――倫理(宗教的又は道徳的・甚だしきに至っては審美的)――の外ではあるまい。そして理論の最大の任務は常に恰も、倫理への批判であるであろう。問題を絶対化するもの――一般に立場がそれであった――は、往々にして倫理的分子である場合を注意すべきである。絶対的問題と倫理的予言とは往々相携える。実際、形而上学的体系――それは立場に基いた――の内容は、諸価値[#「諸価値」に傍点]の自然的秩序を云い表わすことが屡々であるであろう。かくしてのみ当然に、或る問題は Inferno に、そして他の問題は Paradiso に、住むことが出来る。
 人々は云うであろう、それではどのような問題を選ぼうとも人々の勝手であるのか、そうすれば問題の無政府主義しかないではないか、そうすれば理論の妥当性はどこにあるのか、と。併し問題の選択は少くとも問題を選択[#「選択」に傍点]することであって、問題を勝手に[#「勝手に」に傍点]採用することではないであろう。それに、もしどのような問題でも勝手に採用されてよいならば、元来問題の問題がある筈はない。問題の選択が問題になる筈がないのである。問題の選択[#「選択」に傍点]そのものが今は問題である。何となれば問題は一定の――但し或範囲に於て形式的な――客観的標準に従って、選択され又されねばならないのだから。何がその標準であるか、曰く、性格的[#「性格的」に傍点]なる問題が選ばれなければならず、又選ばれるのである*。
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* 性格が何を意味するかを私は「性格概念の理論的使命」という文章に於て述べた。性格の概念は個性の概念でもなく又類型の概念でもない。それは一方に於て知識学的通路[#「通路」に傍点]であると共に、他方に於て常に歴史社会的必然性――歴史的運動――の契機である。性格的とはそれ故、歴史的運動に於て必然的位置を持つ処の、歴史的運動に寄与する処の、歴史的使命[#「歴史的使命」に傍点]を帯びた、事物を略々意味する。
[#ここで字下げ終わり]
 蓋し問題の選択はその問題の解決を目的とする。そして問題の解決とは、問題が常に歴史社会的存在であるから、歴史的社会の或る必要[#「必要」に傍点]を充たすことに外ならない。解決する必要のない問題は問題ではないからである。であるから問題と解決とは、社会の歴史的必然[#「必然」に傍点]――それは取りも直さず歴史的社会の必要[#「必要」に傍点]・要求[#「要求」に傍点]となる――を受け容れ、そして之を解きほごし、かくすることによって新しい必然を呼び起こす処の、一つの歴史的過程であるであろう。之によって社会の歴史的運動の一つが茲に展開されるのである。故に問題の選択はかかる歴史的運動に寄与すべく行われなければならない。かかる歴史的使命を有った問題のみが選択されねばならない。性格的な問題[#「性格的な問題」に傍点]が選択されねばならない[#「ねばならない」に傍点]所以である。――選択されねばならないというこの当為[#「当為」に傍点]は併し乍ら、ただ選択しようとする個人[#「個人」に傍点]に対して吾々が関心を有つ時に限って、効果を有つことの出来る概念であることを注意しよう。と云うのは、個人の主観的意志に対してのみ、当為の意味は成り立つ。もし吾々の関心が個人に限られなかったならば、もし個人を優越する限りに於て客観的と考えられる歴史社会的事実[#「歴史社会的事実」に傍点]に吾々が関心するならば、この当為の概念は、茲に於ては、元のまま効果を有つことは出来ないであろう。個人にとって、性格的問題が選択されねばならない[#「ねばならない」に傍点]からと云って、無雑作に同様に歴史的社会に就いてもそうあらねばならないのではない。歴史社会的事実[#「事実」に傍点]を個人的当為[#「当為」に傍点]と混同[#「混同」に傍点]することは、異った二つのものを一つにする点に於て誤っているよりも寧ろ、元来一つであるものを二つに離してしか考え得ない所から由来する誤謬であるであろう。歴史社会的事実とは、個人的当為の内容の外ではなく、又個人的当為とは歴史社会的事実を基本としてのその個人的な解釈に外ならない。何となれば歴史社会的事実とは特有な意味に於ける道徳的事実[#「道徳的事実」に傍点]――fait moral――なのであるから。そこで個人を優越する限り客観的と考えられるこの歴史的社会の事実[#「事実」に傍点]に於ては、この特有な意味で道徳的な――個々の主観的な個人倫理的道徳の当為からは独立でありそして物理的[#「物理的」に傍点]なるものに対する処の――道徳的事実(fait moral)に於ては、事実上[#「事実上」に傍点](但しこの事実が今の意味での道徳的事実である事を忘れてはならぬ)人々はただ解決し得る問題をしか提出し得ない[#「ない」に傍点]のである。歴史社会的事実――特有なる意味で道徳的なる道徳的事実――に於ては、事実上[#「事実上」に傍点]、解決し得る客観的条件を具えた問題のみが常に選ばれるのである。この意味に於て、事実上、性格的な――歴史的使命を持った――問題のみが選ばれるのである。選ばれる[#「選ばれる」に傍点]と云うのであって、選ばれねばならない[#「ねばならない」に傍点]というのではまだ必ずしもない。――処が、特有な意味での道徳的事実としての歴史社会的事実[#「事実」に傍点]は、個人的当為[#「当為」に傍点]の内容であり基体であった。それ故凡そ何ものかが歴史社会的事実として事実上かくある[#「ある」に傍点]が故に、正にその故に、個人的当為としてかくあらねばならない[#「あらねばならない」に傍点]のである。事実と当為とのこの帰結の関係はとりも直さず、歴史的運動の概念が、歴史的使命[#「歴史的使命」に傍点]の概念が、即ち一言で云うならば性格[#「性格」に傍点]の概念が、云い表わそうとする処のものそのものであった。故に今云うことが出来る、性格的問題が(歴史社会的)事実上常に選ばれるのであり[#「あり」に傍点]、故に[#「故に」に傍点]又選ばれねばならない[#「ねばならない」に傍点]のであると。問題は常に性格的に選ばれるのであり[#「あり」に傍点]、故に[#「故に」に傍点]又そのようなものとして選ばれねばならない[#「ねばならない」に傍点]のである。否問題それ自身が常に性格的であり、恰もそれ故に又性格的であらねばならないのである。性格的でない問題も事実としてはあるではないか、と人々は云うかも知れない。併しそれは、一応一つの問題であるかのように見えても、歴史社会の限界条件に於ては、事実上は結局問題の資格を持ち得ないものである。この事実上の無資格を結果に於て暴露するものが恰も歴史的運動の外にはないのであった。問題の選択は勝手ではない、問題は常に性格的である。
 問題は性格的[#「性格的」に傍点]である。然るに前に、問題は相対的[#「相対的」に傍点]であった。性格的なる問題が相対的であるとは何を意味するか。性格的とは歴史的運動に寄与することであった、歴史の運動を目前に展開せしめて之を観想することではない、そうではなくして歴史的運動それ自身に参与するのである。歴史的運動へのかかる現実的な参与は吾々にとってはただ現代[#「現代」に傍点]に於てしかあり得ない。故に一般に性格的とは歴史的社会の現代性を指すことに外ならない。但しかかる現代性はかの永遠なる今[#「永遠なる今」に傍点]ではない、アウグスティヌスが懺悔録を書きつつあった時にも、私が今この文章を書く瞬間にも、そこに逍遙しているものは同じ資格の永遠の今であろう。現代性は之に反して将来に於ける永遠の今でもなく又過去に於ける永遠の今でもない、現在に於ける今の今なのである。今の今である現代は、他の時間部分に対しては、特有の歴史的な資格――現在という――を持っているであろう。かかる特有な歴史的資格が性格的なるものの必要なる一部をなすのである。さて性格的な問題はかかる歴史的特権[#「歴史的特権」に傍点]をもつ問題である。それは現代の問題である。現代の問題は或る過去の又は将来の時代の問題と、同一平面上に、同列に、並べられることは出来ない。其処には単なる時間上の位置の差ではなくして理論上の秩序の差があるからである。之を並列的関係に水準化し、相対化[#「相対化」に傍点]すことは許されない。もし之を許すとしたならばどのような問題を選ぶかは全く人々の勝手となるであろう、そのような人々は勝手に或る時代に生活している者と想像して空想的に又回想的に夫々の問題を採用することが出来ると考えるであろうから。かかる歴史的無政府主義に陥らないためにこそ、問題は性格的でなければならず又そうあるのであった。さてそうすると性格的なる問題は、問題の絶対性を裏書きするかのように見えるかも知れない。併しもう一遍言おう、性格は現代性を意味する、永遠の今ではなくして今の今を。現代が、時間を超越する意味に於て永遠化せられない限り、性格も亦相対的であることを止めることが出来ない。現代は次の時代に移り行く、現代が最後の日ではない。併しそれであるからと云って、現代に生活する人々が勝手に歴
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