j的時間軸を変換し、現代が或る次の時代であると仮構することによって事物を論じることは許されない。現代は相対的[#「相対的」に傍点]である、併しそれにも拘らず現代は絶対に[#「絶対に」に傍点]現代であって他の時代ではない。歴史社会の現代性の、このような絶対的に見えながらそれ故却って相対的な特色を云い表わすものが、恰も性格概念であるであろう。性格の概念は歴史的無政府主義と、超歴史的専制政治とから、歴史社会の現実的運動を守るための概念なのである。
 問題は性格的である。それは時代の血を引いている限り、時代の寵児であるであろう。かくて性格的問題――それが問題らしい問題である――は常に支配的な問題であるか、或いは又[#「或いは又」に傍点]、支配的になろうとする勢を示す処の問題なのである(それ故それは流行や新しさと混同されることが往々である)。言葉を換えて云うならば、それは或る意味に於て、有力[#「有力」に傍点]なる問題であり、解決力[#「解決力」に傍点]ある問題なのである。性格的問題――それこそ最も問題らしい問題である――は他の多くの問題[#「他の多くの問題」に傍点]を解決すべき第一義の[#「第一義の」に傍点]問題であると考えられることは当然であろう。事実は一定の時代に於ては、一切の問題が或る一つの中心問題[#「中心問題」に傍点]に結び付けられることによって初めて最も正面的に解決せられるものと考えられる。或る時代に於ては神が、或る時代に於ては人間が、又他の時代に於ては他のものが、このような中心問題として理解されるのである。さてこのような中心問題[#「中心問題」に傍点]が併しながら、相対的でなければならなかった。
 今や次のように結論することが出来る。苟くも問題の名に値いするものであって絶対的なる問題はない、何となれば一切の問題は性格的――相対的[#「相対的」に傍点]――であるのだから。併し又そうであるからと云って、どの問題でも勝手に選ばれて好いのでもない。何となれば一切の問題は性格的[#「性格的」に傍点]――歴史的特権――であるのだから。時代を超越した永遠の問題はない、在るものは凡て、歴史社会的限界条件の下に、時代の問題[#「時代の問題」に傍点]であり、そして現在に於ては、現代の問題[#「現代の問題」に傍点]としてあるのである*。このようなものが吾々の所謂問題である。理論に就いて、問題はこのようなものとして、立場の概念を優越すると云うのである。問題は性格的であればこそ――歴史的使命を持てばこそ――、それ自身問題であることによって一列の他の諸問題を展開することが出来る――前を見よ。問題[#「問題」に傍点]を突きつめるということは、理論の内容を展開し豊富にすることを意味する。試みに立場[#「立場」に傍点]――論理的整合――を突きつめて人々は何を得るか。それは常に理論の稀薄化と性格の疎外との外ではない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 現代の問題を吾々は決して広い意味に於ける時事問題に限らない。そうではなくして一切の問題が現代の問題という資格を持っているというのである。現代の問題としてのこの資格を明白には自覚せず又そうする必要のないような問題――没性格的な問題――は、多かれ少なかれ、かかる資格からの抽象[#「抽象」に傍点]として理解される。もしそうでなければ例えば数学の体系と数学の歴史とを区別する標準はどこにもないであろう。
[#ここで字下げ終わり]
 或る一つの理論[#「理論」に傍点]を批判[#「批判」に傍点]し得んがためには、徒に夫が基く立場[#「立場」に傍点]の成立不成立を論ずることに人々は満足すべきではない。之に満足し得るような人々によって否定され得る程それ程他愛なき立場に基く理論は、思うにおのずから歴史社会的に淘汰されて消滅して了っているであろう。それであるから人々は、理論が何を問題[#「問題」に傍点]とするかを第一に見極めることが最も必要なのである。理論の動機をなす処の問題を理解しない限り、その理論は理解されたのではない。さて第二にその理論が持っているこの問題が果して性格的[#「性格的」に傍点]であるか否かを人々は決定し得なければならない。之を決定し得ず又は決定することを知らないならば、この理論の歴史的(社会的)意味を理解することは原理的に不可能であるであろう。この二重の手続きを経て何等かの理論[#「理論」に傍点]は初めて批判[#「批判」に傍点]されたことになるのである。もしそうでなければ所謂批判とは単に論理の帳尻を合せることか、それでなければ一つの科学的漫談でしかない。
[#改段]


[#ここから1字下げ]
[#ここから大見出し]
論理の政治的性格
    ――主に問題[#「問題」に傍点]との関係に限る――
[#ここで大見出し終わり]
[#ここで字下げ終わり]


[#3字下げ]一[#「一」は中見出し]

 現実に存在する理論は常に誤謬[#「誤謬」に傍点]を含む可能性を持っている。従って誤謬の有無・程度・種類に応じて、諸理論は初めて夫々様々な形状に分裂し、相互に食い違いを産むのである、と或る人々は考える。もはや誤謬を含まない理想的理論としてはそれ故、一定の事物に関する一切の諸理論は一つの同一の理論に一致しなければならない(理論の唯一性[#「唯一性」に傍点])、とその人々は考える。例えば存在[#「存在」に傍点]という一定事物に就いての諸理論は、それが理想的であるならば凡て、同一無二の帰結に到着すべきものと考えられる。処が実は、存在の概念の下に、或いは自我・意識等々が、或いは世界・歴史的社会等々が、理解される。存在という同一に見えた事物も、或いは自我の・或いは世界の問題[#「問題」に傍点]として提出[#「提出」に傍点]される時、問題提出に於ては異った夫々の問題となる外はない。尤も一定の学問に対して、もし一つの最も普遍的な問題というようなものがあるならば、少くともそのような問題こそは唯一無二[#「唯一無二」に傍点]でなければならないように見えるかも知れない。併しかかる問題は無論、ただ形式的[#「形式的」に傍点]にしか存在しない。吾々がそのような問題を、実質的に――形式的にではなく――即ち現実的に、把握[#「把握」に傍点]しようとすれば、忽ちそこには把握の仕方の相違が這入って来る。形式上は同一と考えられた問題――前の例ならば存在――も現実に於ては夫々異った特定[#「特定」に傍点]の問題として把握され、そして提出されるのである。現実への避くべからざる交渉を予め用意した限りの現実的概念――之を観念的概念から区別せよ――としては、問題とは常にこのような夫々特定の問題提出[#「特定の問題提出」に傍点]の外ではない。それ故このような意味に於て、学問にとって、一定の書物とか唯一無二の問題とかいうものが存在するとは限らない。従ってそこには理論の唯一性があるとは限らない。理論が同一無二の帰結を有ち得ないのは、必ずしも誤謬の有無・程度・種類の事実上の[#「事実上の」に傍点]相違から来る制限ではなく、そのような事実上の制限を撤して原理的に理想状態を考えて見てもなお、理論はその問題の把握――問題提出――の如何によって、原理的に[#「原理的に」に傍点]夫々異った軌道を歩むように出来ている場合があるのである*。――如何なる問題を把握すべきか、如何なる問題を如何に提出すべきか、という問題の選択[#「問題の選択」に傍点]は、であるから誤謬の訂正[#「誤謬の訂正」に傍点]という仕方によっては一義的に決定出来ない。このことが今明らかとなった。誤謬の訂正の代表的なるものは矛盾の排除[#「矛盾の排除」に傍点]・整合[#「整合」に傍点]であろう。問題把握の動機[#「動機」に傍点]は、矛盾の排除乃至整合の地盤である所謂分析論理と呼ばれている平面の上では、失われて了うと云うのである。理論に向って問題を提出するものは正に、歴史社会的存在の運動の必然性の外にはない、この必然性が初めて特定の歴史的段階に対して特定の問題を提出することが出来るのである**。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 哲学的乃至歴史的諸科学――之を性格的諸科学と名づける理由がある――は凡て、この場合にぞくする。吾々が之から取り扱うものは専らこの諸科学に就いてである。
** 「問題に関する理論」に於て私はこの点を明らかにした。
[#ここで字下げ終わり]
 そこで一つの疑問が残される。歴史的運動の必然性によって、甲の歴史的段階で問題甲が提出され、次の乙の歴史的段階で問題乙が提出され、かくて理論甲に理論乙が続いたとしよう。歴史的段階甲―乙と同じく、理論甲―乙も(問題甲―乙も)歴史的に連続する。理論甲が歴史的に理論乙へ運動したのである。併し之は理論の歴史的[#「歴史的」に傍点]連続ではあるが、直ぐ様それが、理論の理論的――特定の意味で論理的[#「論理的」に傍点]――連続であるのではない。それは理論が恐らく時代の推移と共に歴史的に[#「歴史的に」に傍点]変化したのではあったであろう、併しそれだけでは、後来の理論が従来の理論を論理的[#「論理的」に傍点]に如何に止揚し得たか、の説明にはまだならない。例えば一つの思想の或る意味での階級性を指摘することと、依って夫の虚偽性を指摘することとは、一応区別され得るが、今までの処では場合が前者に止っていてまだ後者への移り行きが説かれていなかった、と云うのである。残された疑問はであるから、次の課題を課する。
 問題選択に於ける歴史的必然性[#「歴史的必然性」に傍点](従って乃至)遊離性[#「遊離性」に傍点]が、理論内容に於ける論理的真理性[#「論理的真理性」に傍点](従って乃至)虚偽性[#「虚偽性」に傍点]として、反映し得るか否か。するならばどう反映するか。――吾々が解くべき課題は之である。

 この課題を解くために、予め真理[#「真理」に傍点]概念を正当に洗練してかかる必要がある。真理の概念は第一に一種の全体[#「全体」に傍点]の概念として理解され得るであろう。事物の一面的・半面的理解は少くとも真理であることが出来ず[#「出来ず」は底本では「出来す」]、ただ全面的理解だけが真理を有つと考えられる。それ故例えばヘーゲルに於ては真理は終局的な総合と統一とを云い表わす言葉であった。併し吾々が今問う処は――何処でも何に就いてもそうであるが――、単に真理[#「真理」に傍点]とは何かではなくして、云わば何が[#「何が」に傍点]真理か、である。如何なる規定に於て把握されたものが真理の内容となるか、如何にして把捉・獲得される限り真理が真理となるか、である。問われるものは真理の現実的[#「現実的」に傍点]規定であって、その観念的[#「観念的」に傍点]規定ではない。真理が全体性であるならば、吾々は、この全体性を如何にして――真理として――現実に把握するか、を尋ねる。処が全体性は現実的に云ってただ部分[#「部分」に傍点]的にしか把握出来ない。原理的に云って現実上(現実[#「現実」に傍点]とは一つの原理[#「原理」に傍点]であることを注意せよ)そうなのである。無論それが真理――全体――としてである限り、人々は之を部分としてではなく正に全体として把握するには違いないが、その把握の仕方――それが現実――が部分的なのである。従って把握されたる又は把握され得る限りの現実の真理は、部分的であると云わないわけには行かない。それにも拘らずこの部分的真理が全体性を有たねばならないのである。この関係を云い現わすのに吾々は、或る種の無責任なる理想主義風の口吻を避けて、代表[#「代表」に傍点]の概念を用いるのが適切であるであろう。把握されたる真理部分は真理全体――真理の理念[#「真理の理念」に傍点]・真理自体・絶対真理・其他何でも好い――を代表する。この意味に於て真理は常に代表[#「代表」に傍点]的である。
 一般に、全体と部分との関係に於ては、必ず全体が部分を優越すると考えられる。そ
前へ 次へ
全27ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング