黷ナあればこそ真理が、部分ではなくして全体でなければならぬと考えられた。処が、今部分が全体を代表[#「代表」に傍点]すると云う時、却って部分が全体を或る意味に於て優越することが意識される。それ故代表の概念は実は、全体―部分の関係ではもはや充分正当には理解出来ない。そこで之を形式[#「形式」に傍点]―内容[#「内容」に傍点]の関係に於て見よう。
 全般としての真理概念――真理の理念[#「真理の理念」に傍点]――は部分としての夫を優越した。全般真理は部分真理を支配していなければならない、そしてそのためには、夫は後者から独立して自身に安らうことが出来なければならない。真理の理念は、個々の部分真理をして凡そ真理たらしめるものであり従ってその限り部分真理を離れては意味がないが、それにも拘らず部分真理から独立して自己の安定を保っていると考えられる。さてそこで真理の理念は部分真理をその内容とする形式[#「形式」に傍点]と考えられるであろう。処がこの形式は、今云ったことによって、たとい内容に即したものとは云え、この内容からは独立に自足したものと考えられる。それ故真理の理念を独立な自律性をもつものとして、その自己安定の状態に於て、捉えようとすれば、夫は内容から独立に、形式的に[#「形式的に」に傍点]、無内容[#「無内容」に傍点]なるものとして、定着されなければならない。それは真理一般であって、特に真理某でなければならない[#「特に真理某でなければならない」に傍点]のではない。茲に現実内容から来る規定は原理的に作用を停止され、それに形式的原理――理念の独立――が代わる。真理の理念[#「理念」に傍点]はかくの如く無内容と考えられるであろう。今実際にこの無内容と考えられた理念真理が、現実を取り扱う理論に於て、その原理となったと想像せよ。理念が無内容であったのだから、現実内容は容易に理念の内容として取り入れられるかのようである。処が実は、理念が無内容であったからこそ却って、現実内容はただその作用を停止されることによってのみ、ただ無内容者の内容という資格に於てのみ、即ちただ内容そのものの資格でない時に限って、内容的にではなくしてただ形式的に、その内容となることが出来るに過ぎない。現実内容は形式的原理の単なる――形式的なる――素材となり、結局その内容性・現実性としての原理を形式の原理によって否定される。それ故無内容と考えられていた理念真理は、茲に至って実は、現実内容の内容性・現実性を否定し得るような一種の内容――無内容という内容――を持っていたことが暴露されるであろう。理念を無内容と見せかけて置き乍ら、その無内容自身がひそかに積極的な内容――形式の独立性――を主張するのである。人々は普通、理念に一定内容を予め入れてかかるのをその実体化・絶対化と呼んで警戒するが、今のように之を無内容化するこそ又一つの実体化・絶対化であることを注意すべきである。形式的に規定したものへ、後から内容を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入すれば、一向誤りはなさそうに、普通漫然と考えられるのであるが、形式的に規定するということが、形式的原理に則る――真理理念の場合が之であった――ことであるならば、そこには原理的に、現実内容の排斥が伴う外はない。であるから形式を原理として、即ち之を理論の出発又は帰着すべき立場として、現実内容に対する理論を構成しようとするならば、そのような理論は初めから現実内容に対して虚偽でなければならないのである。形式的原理によって事物の現実的・内容的・原理を蔽おうとするこの最も頻繁なる虚偽は、形式主義[#「形式主義」に傍点]と呼ばれている*。それであるから、真理の理念をば、真理概念の分析的理論の原理・出発点・立場となし、その理論の原動力であるかのように第一のテーマとして先頭に押し立てるならば、元来無力[#「無力」に傍点]であるべきであった理念としての真理概念は、その形式主義故に、今や有害[#「有害」に傍点]とさえなるであろう。――さて前に、全般[#「全般」に傍点]真理と考えられたものが、このような真理形式[#「形式」に傍点]――理念――であり、部分真理[#「真理」に傍点]と呼ばれたものが之に反して今の真理内容[#「内容」に傍点]であった。前者は一般的形式のもつ形式的原理にぞくし、後者は特殊的現実内容のもつ内容的原理にぞくする。そして前者は、現実内容を内容的に取り扱おうとする一切の理論にとって、元来無力であり、且つ時に有害でさえあった、それを吾々は見て来た。故に吾々は、代表的真理の概念の下に、普通そうされるように真理の理念[#「真理の理念」に傍点]を理解すべきではなく、却って常に例外なく、何等か特殊な真理内容[#「真理内容」に傍点]をのみ理解しなければならないのである。このことは絶対に原理的である。
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* 事物は理論的に抽象されることによって形式と内容とに分割されることが出来る。この抽象とその抽象力なくしては、事物の真の意味に於ける分析は不可能となるであろう。併し最も注意すべきは、この場合、形式と内容とが必ず相互の連帯性[#「連帯性」に傍点]に於て分析されることを条件としなければならない、という点である。形式が形式であり、即ち内容に先立って独立し得る原理であるという理由から、もし形式が、往々そうされるように、独立に内容への連帯に関わることなく分析されるならば、その限りの形式に対しては、内容は全く任意に・偶然に・無関係な素材として・外部的に・付加されるに過ぎない。かかる形式とかかる内容との所謂総合[#「総合」に傍点]――之が単なる総和ではなくして正に具体的な総合と思われているからこそ問題なのであるが――は、もはや最初の具体的事物とは全く別である。この事物の具体性が分析に際して形式と内容との連帯性として働かない時、その分析は虚偽としての抽象となる。
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 吾々が真理概念を観念的に[#「観念的に」に傍点]理解する代りに之を現実的に[#「現実的に」に傍点]理解するならば、真理という言葉を口にする時吾々は必ず真理内容――真理の特殊的現実的内容――を理解すべき義務がある。もしそうしなければ吾々は無用な空想を以て満足し或いは又苦しむことになるであろうから。さてこのような真理概念であってこそ、初めて虚偽[#「虚偽」に傍点]と現実的に[#「現実的に」に傍点]対立することが出来る。凡そ一方で一定の虚偽を心に置いているのでなければ、真理の内容は現実的に把握出来ないであろう。何となれば真理が最も熱烈・執拗に要求されるのは外ではない、この虚偽を克服しようと欲する場合なのであるから。真理にとっては虚偽の問題[#「虚偽の問題」に傍点]が――真理の理念の問題がでない――最も重大と考えられる。虚偽をして虚偽たらしめるもの、それはやがて取りも直さず、真理をして真理たらしめるものではないか。現実の真理にとっては、真理と共に常に虚偽[#「虚偽」に傍点]――単に誤謬[#「誤謬」に傍点]ではない(初めを見よ)が問題となる。真理内容としての真理は、形式的な真理概念とは異って、ただ虚偽内容との連帯に於てしか分析されることを許さない。
 かくの如くして吾々は真理をば内容的原理[#「内容的原理」に傍点]に従って(形式的原理に従ってではなく)、現実的[#「現実的」に傍点]に(観念的にではなく)、捉える必要に迫られる。そこで人々は云うであろう。真理概念を内容的に捉えると云っても、元来内容は無数に個々別々であるから、之を一つ一つ理解し尽すことは無論出来ない、之を統一的に捉えるためには従って、之を云わば内容一般[#「一般」に傍点]として把握する外に道はあるまい、併しそうすることは要するに真理が真理である所以・真理性・を捉えることに外ならないが、それが即ち真理の理念ではないか、と。人々によれば恰も事物には一般的形式と個別的内容との関係しか認められないかのようである。であるからここで内容的に把握されるものは実は内容一般[#「内容一般」に傍点]であり、それはとりも直さず一つの形式[#「形式」に傍点]に外ならない。こうしておけば、先ず始めに形式性に於て規定しておいて、後から内容を任意に付加・※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入する外、途のないのは尤もである。処が吾々は内容をこのように形式的にではなく正に内容的に[#「内容的に」に傍点]取り扱わねばならなかった。そうしなければ内容的・現実的・原理が否定されて了うからである。吾々も個々別々の内容を一つ一つ取り上げ得るとは云わない、そうかと云って内容を内容一般として取り扱うのであってもならない。内容としての内容を統一的に把握するに必要なものは形態[#「形態」に傍点]の概念である。
 形態は個々の内容と一般的形式との中間に立つ、前者に対する限り夫は一般的であり後者に対する限り夫は内容的であるであろう。従ってこのような形態概念は往々典型[#「典型」に傍点]の概念と同じ任務を帯び、従って就中、事物の分類の仕事に与るようである。かくて之は個別化の原理にぞくする中継局の位置を占めることも出来なくはないであろう。併し形態をただそのようにしか理解しないことは、吾々がこの概念を導き入れた主旨から云って、実は元来不当である。何となれば、形態がもし、このような一つの――中間に位する――個別化原理に外ならないならば、まず初めに一般的なるものが形式的に在って、之に外延上の区画を施し、個々の内容を入れるべき定位を割り出す場合の原理を、それは意味するであろう。処がこの仕方はとりも直さず先程から排斥している形式主義の外ではないのである。形態概念はそれ故、この形式から内容への形式主義的進行の原理――個別化原理――から引き離して理解されるべきである。形態は典型ではない*。
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* 典型[#「典型」に傍点]・個性[#「個性」に傍点]、等々の概念は、形式的原理にぞくする処の個別化原理に基く。之は夫々、形態[#「形態」に傍点]・性格[#「性格」に傍点]、等々の概念から区別されねばならない――性格に就いては次を見よ。
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 形態の概念は性格[#「性格」に傍点]の概念と関係している。一般に、事物の容積ある内容を、内容として、即ち内容的に[#「内容的に」に傍点]――形式的にではなく――把握する通路を、性格と呼ぶことが出来るであろう。事物は一般に、性格という理解の通路に沿うて、初めて一定の性格を有つ事物として、その容積ある内容を捉えられる。そうしなければ事物の容積は平面に還元され、事物の優越なる性格が凡庸化され、内容は形式化されて了うであろうから。一般に、事物の内容をして内容として捉えさせるものが性格であり、そして又かくして捉えられた事物の内容が、その事物の性格なのである。性格とは内容的に把握されたる限りの内容である。事物の内容の容積をなしている内容的・現実的・質料的・原理を担ったものが性格に外ならない。個々別々の事物も亦、それ故、その内容が把握された限り、個々別々の性格をもつ。処が恰も形式論理学に於ける概念が外延―内包の関係によって種概念と類概念との上下の系列をもつと同じに、事物の性格も亦段階的系列をなすことが出来る。諸事物の性格は、一定の一事物のもつ一性格の下に、時間的推移に於てか並立的同時存在に於てか、統一され得るものである。さて下位の性格に対して、相対的に上位に位する性格が、形態[#「形態」に傍点]の概念であるのである。形態は、個々事物の内容を、何等か総体[#「総体」に傍点]として、而も依然現実内容[#「現実内容」に傍点]として、捉える処の、通路である(形式的な総体は一つの理念であり、従って現実内容とは無縁であった)。
 形態[#「形態」に傍点]と形式[#「形式」に傍点]とはそれ故もはや一つではない。一般的形式は内
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