eとしての内容の排斥に外ならなかったが、形態は恰も之に反して、内容の容積――性格――の顕揚をこそその使命とする筈であったから。形態は性格の一つの場合であり、従って内容的・現実的・質料的原理を担うているからである。そして又今、個々の事物の性格からも形態は区別されねばならなかった。そこで事物のかかる形態は、何によって、何から決定[#「決定」に傍点]されるか*。例えば幾個かの事物が一定の形態をその性格として受け取ることは、何処から来るか。一般的形式からではない、何となれば形式は現実的原理を担ってはいなかったから。それ故形態の発生地は、現実的原理を担っていた事物の個々内容の性格になければならないようである。形態を決定するものは個々事物の性格であるように見える。処が個々事物の諸性格が一定形態にぞくするものとして統一されるのは、もはや夫々の性格の所業ではなくして正に形態の所業でなければならない。それ故形態は一般的形式からも個々内容の単なる性格からも決定されることが出来ない。そして形態が自己自身を決定するという云い表わし方にも意味がない。故に一事物の形態[#「一事物の形態」に傍点]は、之と一定に関係する他事物[#「他事物」に傍点]によって決定されるものである。某一事物の内容的・現実的・質料的・原理を充分な意味に於て担っているものは、ここではもはやその事物の個々内容ではあり得ない。之は単に一般的形式に対立する限りの現実内容でしかなく、従って之は形式的に規定された限りの現実内容に過ぎなかった。そうでなくして、この某事物に一定に関係する他事物[#「他事物」に傍点]として、某事物の単なる個々内容の背後から、そのもう一段より現実的な内容となるべく、現われて来るものこそが、某事物の形態の決定者である。一定群の個々内容の諸性格を、単なる性格として把握しようとすれば、之等を形式化する外に統一の原理はなかった。之に反して之を形態として把握すれば、初めて一定群の個々内容は内容的・現実的に統一あるものとして取り出される。事物の形態的把握はかくて、その単なる性格の把握に較べて、それがより一般的であるにも拘らず却って、より具象的・立体的な内容からの通路を必要とするであろう。某事物の形態は、他事物が之を決定する限りに於て、某事物の把握通路となることが出来る、形態の決定なくして形態はあり得ない。そして一事物の形態の決定者は常により具体的なる他事物なのである(それ故、甲事物の一定形態は、時に、之の決定者たる乙事物の甲形態[#「甲形態」に傍点]ともなることが出来る)。――形態が一般的形式と個々内容との中間に位すると考えられた事情は、之を一つの個別化原理と想像する場合とは反対に、両者を媒介する処のより具象的な内容からの発生を告げているものに外ならない。一旦形態の概念へ来れば、かの一般的形式も個々内容も、夫々事物の一形態に相当するのであった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 形式的原理から生ずるものは可能性[#「可能性」に傍点]であり、之に反して質料的原理から来るものは決定[#「決定」に傍点]の関係である。今は形態の決定、形態的決定[#「形態的決定」に傍点]が問題である。之を他の仕方の決定――物理的因果関係・心理的発生関係等々の夫――に還元し又はなぞらえることは許されない。
[#ここで字下げ終わり]
 形態概念を一通りこう決めておいて、さて真理の現実的概念を尋ねるならば、もはや真理の形式――真理の理念[#「真理の理念」に傍点]――としてでもなく、又個々の真理内容[#「真理内容」に傍点]としてでもなく、正に真理形態[#「真理形態」に傍点]として真理は理解されねばならぬこととなる。虚偽も亦同じく虚偽形態[#「虚偽形態」に傍点]として理解されねばならない。処で真理内容は虚偽内容から独立に分析されてはならなかった――前を見よ。故にこの今の真理形態は虚偽形態から独立に理解されてはならない。真理形態と虚偽形態との関係、又は真理内容と虚偽内容との形態的関係、に於て、真理概念は取り扱われることが必要である。一言で云うならば、真理はかかる論理形態[#「論理形態」に傍点]にぞくするものとして取り扱われるべきである。――之が今までの結論であった。

 私はもう一つの制限を加える必要を有つ。真理を形式的原理に従って――観念的に――しか理解しない多くの人々は、おのずから、真理の代表的なる典型として、常に形式的[#「形式的」に傍点]真理を考えるであろう。そのような人々が論理学や数学の真理を最勝義の真理典型であるかのように思い做すのは尤もである。この真理をしてその真理典型を保たせるものは純論理的なるもの[#「純論理的なるもの」に傍点]であろう。という意味は、真理は何等かの意味で常に論理的と呼ばれることが出来る筈であるが、今の場合の真理典型に於ては特にそれが最勝義に於て論理的である、と云うのである(但しそれであるからと云って、夫が最勝義の真理[#「真理」に傍点]だということにならないことを注意せよ)。併しこの形式的な真理は、それが形式的原理にぞくする限り、人々の想像する処とは異って、内容的な真理と呼ばれるべきものの性質を決定するに正当な資格を欠いている、その推論は前を見れば好い。内容的真理はこの独立な[#「独立な」に傍点]形式的真理への外面的な付加・※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入であるのではなくして、却って後者が前者からの抽象としてこそ、初めて連帯的[#「連帯的」に傍点]に理解されることが出来る。世界観のもつ真理典型――夫は内容的である――は、論理学風な形式的真理典型へ、感情や意志の内容を後から付加・※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入したものではない。世界観に含まれると考えられる情意内容は単なる感情や意志ではなくして、それ自身の内に在る或る意味の論理によって、その真理性を保証されているものである。この論理は純論理的なるものの恩沢によって初めて論理的となり得たのではない、それは純粋論理ではなくして内容的論理である。かかる内容的真理典型を初めに把握しておいて始めて、夫からの一面的抽象としてその内に含まれていたと解釈出来る純論理的整合[#「整合」に傍点]を取り出すならば、それが取りも直さず形式的真理典型であるのである。逆に後者から出発して前者に就いて云々し得ると想像するならば、それは結果を以て動機を決定する処の虚偽であるであろう。――さて真理概念に就いては夫から出発せねばならない内容的真理典型、――之を有つものは例えば歴史的諸科学である(前を見よ)――之を私は性格的[#「性格的」に傍点]真理と呼ぶことが出来る。之に対して、形式的真理を没性格的[#「没性格的」に傍点]と呼んで好いであろう。そこで吾々が取り扱うべき唯一の正当な真理概念は、今や性格的真理に於ける真理形態[#「性格的真理に於ける真理形態」に傍点]という資格を帯びて来る。実際、性格的真理に就いてでなければ吾々が真理形態[#「形態」に傍点]を口にする理由はなかったであろう、形態とは元来、特殊の資格を有った性格概念であったのだから。虚偽に就いても亦同じく性格的虚偽が今の場合の対象でなければならない。それ故今や、吾々の課題は、性格的論理に於ける論理形態[#「性格的論理に於ける論理形態」に傍点]、を媒介として解かれるべきである。

[#3字下げ]二[#「二」は中見出し]

 性格的論理に於ける――没性格的論理は今の問題ではない――論理形態は、真理乃至論理の理念からは決定出来なかった。そうかと云って単なる個々の真理内容からも決定出来なかった。論理に対する他事物[#「他事物」に傍点]として、而もより具体的な論理的内容によって、夫は決定され得る筈であった。今それを見よう。
 性格的論理に於て用いられる諸概念[#「概念」に傍点]は必ずその性格を有つ。例えば或る事物を何と命名するかは没性格的・形式的・論理にとっては全く任意の事にぞくするが、性格的論理にあっては、その任意さの間にすでに人々がそれをどう待遇しようとするかという意図が示されているであろう。概念の成立には一定の動機[#「動機」に傍点]があり、この動機から云って是非ともこの[#「この」に傍点]概念が採用されねばならなかったのである。概念の性格はこの動機によって成り立つのであり、かくて一定形態の諸概念が出来上る。概念の形態はそれ故、この動機によって決定されるものである。性格的真理を持つ諸科学に於て、術語が定義し得られず従って又一致を欠くのを常とするという事実は、この点から説明されるであろう。蓋し動機は自らを云い現わし尽すことが出来ない性質を有つからである。――それであるから概念の性格はすでに判断[#「判断」に傍点]の仕方を予想せしめる、諸判断はこの時すでに一定の形態を取るべく予定されているのである。事実、判断の形態は概念の形態の展開であり、後者の性格が具象化されれば前者の性格となると考えられているであろう。かくて諸判断の性格・その形態は、又一定の動機によって決定されるものなのである。――推論[#「推論」に傍点]はこのような判断形態を云わばその性格に就いて積分したものと云うことが出来る。推論も亦一定の意図の下に動機せしめられる。実際人々はまず予め一定の帰結を有つことを欲し、そのために適当な前提を選択する。もしこの前提で期待した帰結が得られなかったならば、改めて他の適当な前提を求めるであろう。そして万一どうあっても適当な前提を見出すことが出来ない時に初めて、人々は予想された帰結を変えることを余儀なくされるのであり、そこで別に新しい帰結を予想して再び今のことを繰り返すのである。この条件は別に何も独断的な手続きに限られるのではない、何となればこのような手続きを経なければ、吾々は真理へ現実に到達出来ないのだからである。或る人々は、予め帰結を先取することをば、虚偽以外の何ものをも産まない処の条件と考えるかも知れない。もし人が飽くまで最初に予想された帰結に執着するならば恐らくそうであろう。併し彼が理論的である限り、予期の帰結がどうしても惹き出せない時、之を思い止まるのが健全な場合であろう。そして之は何も、他の帰結を先取することまでをも断念したのではない。真理はただ適切な帰結の先取によってのみ開拓される。人々は洞察・直観・発見の才・等々の言葉を以て、この先見の明を讃美するのを常とさえしはしないか。諸々の推論にその性格を与え、その形態を決定するものはかくて又一定の動機であるのである。――次にこの推論は更に、理論[#「理論」に傍点]の微分に相等するものと考えられる。諸々の理論を指導し、之にその性格を刻印し、一定の理論形態を決定するものは矢張り又理論の一定の動機でなければならない。この動機の活動が活発であればある程、理論は明快となり、その目的を正確に果し、強力な説得力を持って来る。この状態は多少の語弊を忍ぶならば修辞的[#「修辞的」に傍点]と呼ばれてよいであろう。理論に於ては常に結論が先取される。もしそうでなければ分析――理論の代表的な手続きが之――のテロスが失われ、或る種の科学に於て見受けられるように、際限なき区別の羅列が理論の内容となって了うに違いない。――さて、そうであるから一般に、性格的論理形態を決定するものは、論理の動機[#「論理の動機」に傍点]である。
 尤も論理のこの動機によって、単に性格的真理ばかりではなく、同時に性格的虚偽も亦動機づけられるであろう。そうすればこの動機は真偽の区別に対して無記な規定を動機するに過ぎないかのようである。併し元来、虚偽の可能性のない処には現実的な真理はない。真理を真理たらしめるものがとりも直さず虚偽をして虚偽たらしめる処のものであった――前を見よ。そして夫が恰も論理のこの動機に外ならない。――さて論理の動機は情意[#「情意」に傍点]又は信念[#「信念」に傍点]に基く*。
[#ここか
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