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* 論理形態が情意[#「情意」に傍点]によって決定される事を特に指摘したものはリボーの労作である(T. Ribot, La logique des sentiments. 特に p. 65 以下参照)。又論理の内容が信念[#「信念」に傍点]であり、真理の性格が信念の強度にあることを強調したものはタルドであった(彼に於ては論理[#「論理」に傍点]は目的論[#「目的論」に傍点]と表裏関係を有つ、論理に於て信念であるものは目的論に於ては欲望[#「欲望」に傍点]である)(G. Tarde, La logique sociale, chap. I 参照)。
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情意乃至信念がそれ自身に於て全く没論理的であるという想像は、一つの形式主義的迷信である。論理を純論理的なるものとしてしか理解しなければ、情意乃至信念は同語反覆的に没論理的であらざるを得ないであろう。処が吾々によれば恰も論理はそのように形式主義的に理解されてはならないのであった。現に人々は判断を一つの信念に帰しているではないか。而も之は無論のこと、判断が論理的でないことを意味するのではなくして、却って信念が信念でありながら同時にそのまま論理内容を構成する動力であることを意味しているであろう。論理内容はこの信念の内に横たわる。信念でありながら――信念でなくなるのでも信念以外の動力に従うのでもない――論理的であることが出来るのである。処でそうであるならば、信念の不可欠の条件と云うことが出来る情意内容も、何故元来そのまま論理的である場合があってはならないか。情意がそれ自身の動力に従って或る時は論理的となり又或る時は没論理的となると考えることが何故不思議なことなのか。もし論理的内容を抽象した情意こそ真の情意であると云うならば、茲にも形式主義の虚偽公式が当て嵌まるというまでであろう。分析は勝手であるがそれをどう総合するかが常に問題である。感情や意欲は、所謂論理的思惟というような純論理的なるものの形式に、偶然外から混入する処の夫から独立な素材ではない。もしそうならばこの混入によって原理的に常に虚偽が惹き起こされる外はない。すると例えば情意内容を有つ世界観というようなものは、例外なく虚偽である外はない。苟くも世界観をもつということが非論理的であり従って反論理的であることとなるであろう。事実は、論理の現実内容こそ感情・意欲の内に横たわる。論理の動機・論理構成の動力はここからして発生し、ここからのみ取り出される。念のためにもう一遍云うならば、情意や信念は論理の形式に当て嵌まって初めて論理的内容となるのではない、そうではなくしてそれ自身に内在する原理――質料的[#「質料的」に傍点]原理――によって、場合に応じて論理的内容となるのである。それ故かかる情意乃至信念は、実際もはや単なる夫としてではなくして却って正に論理として意識されるであろう。それであればこそ人々は、過程を逆にして、之を論理の形式[#「形式」に傍点]に当て嵌まったものとして取り扱おうともするのである。青と赤とが夫々の知覚に内在する原理に基いて区別されるのであるにも拘らず、この区別が判断によって与えられるとも考えられるように。
論理形態を決定するもの、論理に動機を与えそれの動力となるもの、それはもはや単なる論理ではなくして情意乃至信念である。この云わば人間学的段階[#「人間学的段階」に傍点]に於ける論理は、吾々が是非通過しなければならない段階なのである。
論理形態を決定するものは情意・信念であった。併し茲でも亦情意・信念を単なる夫としてではなくして、情意形態[#「情意形態」に傍点]・信念形態[#「信念形態」に傍点]として理解することが必要である。現実的内容規定の把握を媒介とせずに情意乃至信念の一般性を把握してはならない。この形態を決定するものは情意乃至信念という――一般的・形式的な――概念ではあり得ない。恰も真理の理念が真理形態を決定し得なかったように。何が情意形態・信念形態を決定するか。論理的形態を決定したものが情意・信念であったが、今度は何か。
論理は妥当[#「妥当」に傍点]の世界にぞくすると考えられている。之に対して情意・信念は意識[#「意識」に傍点]にぞくする。情意・信念は、一般に意識なるものの、特殊の種類――典型――であるであろう。情意・信念を単にそのものとして形式的に規定するならば、それは意識――但し無論特殊の種類の意識――である。又個々の情意内容・信念内容も、かかる意識の形式の内に横たわる限りの、個々の意識内容に外ならない。吾々の求める形態はそれ故、意識[#「意識」に傍点]によっては決定されないということが結果する。――処が意識はその優越なる意味に於て、本来個人[#「個人」に傍点]の意識でしかないことを注意する必要がある。もし超個人的意識というような概念が愛用されるとしても、之を個人的意識へどう関係づけるかを同時に説明しない限り、この概念は地盤がなく理論上の効果を有つことを許されない。個人的意識をただ超越したというだけの超個人的意識の概念は、ただ弁疏的な役割しか果さないであろう。又社会が意識を有つというような云い表わし方は比喩か類推に外ならない。意識概念は、自我概念がそうあるように、ただ個人概念からしか動機されない。人々はこの概念を行使する時、それであるから、常にこの個人概念からの動機に忠実であるべきことを忘れてはならない。この概念をどのように非個人的なるものとして行使しようともそれは人々の自由であるが、それが元来の動機から云って個人的であったことの意識が曖昧であるならば、そこではもはや人々は意識概念使用の権限を踏み超えにかかっているのである。この単純な事実は散漫にではなく正確にそして一般的に掴まれねばならぬ。さて意識概念は情意形態・信念形態を決定することは出来なかった。そして意識概念は今、常に個人的意識の概念でなければならなかった。それ故、吾々の求めている形態を決定するものは、個人[#「個人」に傍点]に関わる概念ではあり得ない。それは社会的存在[#「社会的存在」に傍点]である外ない。一般に、意識形態を決定するものは社会であるであろう。今はその特殊の場合として、情意形態・信念形態に就いて、之を決定するものが社会である、ということとなる。
社会が情意乃至信念の――一般に意識の――形態を決定する。前に、情意乃至信念が論理形態を決定した。故に社会は論理形態を決定し得る筈である。併し単に、社会が意識形態を決定しそして意識が論理形態を決定するから、従ってただ間接に[#「間接に」に傍点]社会が論理形態を決定することになる、と云うのではない。もしそうならばこの二重の形態決定関係によって最初の形態は多少ともその形を崩し変装するであろうから、もはや充分な意味に於て社会が論理形態[#「形態」に傍点]を決定するとは云われないかも知れない。今はそれだけではなくして、この二重の形態決定関係を条件として、それの上で、社会が直接に[#「直接に」に傍点]、論理形態を決定し得るというのである。社会は意識形態を決定するばかりではなく、みずから論理形態をも決定し得ると云うのである、ただその場合意識が予め論理形態を決定していることを条件とするまでである。このようにして社会は論理を形態的に決定[#「形態的に決定」に傍点]し得るものである*。
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* 或る意味に於ける[#「或る意味に於ける」に傍点]論理形態が社会によって決定されることは、一例としてデュルケムが実証的に教える処である。と云うのは彼によれば論理の範疇[#「範疇」に傍点]は社会的に――そして夫は信仰・信念を媒介として――決定されるのである。併しこのような意味に於ける論理形態は、まだ必ずしも真理と虚偽との関係[#「真理と虚偽との関係」に傍点]としての、吾々の所謂論理形態ではない――前を見よ(〔E. Durkheim, Les formes e'le'mentaires de la vie religieuse. Conclusion.〕 参照)。
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所謂妥当[#「妥当」に傍点]の世界にぞくすると考えられる論理形態は意識[#「意識」に傍点]にぞくする情意・信念によって決定される、そしてこの情意形態・信念形態は又社会[#「社会」に傍点]によって決定される。茲で二つのことが与えられていることを見なければならない。第一の点は形態的決定の系列が妥当―意識―社会の順序であって、その順序の逆は不可能だということにある。何となれば形態とは形式的原理ではなくして質料的原理から惹き出されるものであったが、質料的原理を担うものは常にこの系列に於て順次に後にぞくする項でなければならないから。形態的決定の方向はそれ故一方向きであって可逆的ではあり得ない。従って茲に、前のものと後のものとの相互作用[#「相互作用」に傍点]とか相関関係[#「相関関係」に傍点]とかを今持ち出すことは無意味であるであろう。夫を説くことが凡ゆる意味に於て不可能だと云うのではない、そのような決定関係を以てしては形態的決定の理解へ少しの貢献も出来ないと云うのである。――吾々は論理の現実的・内容的把握を志していたのであり、この志を実現する唯一の通路が形態的決定の関係であったのである。
第二の点は、妥当―意識―社会の順序に於て、前の存在が後の存在に依存[#「依存」に傍点]する――但し形態的決定に於て――、ということである。そう云う時、恐らく人々は、次のような言葉を以て反対し得ると想像するに違いない、もし論理形態が終局的に社会的存在に依存するならば、一体論理の独立性[#「独立性」に傍点]――自律――は何処へ行ったのであるか、もし論理の独立性が否定されるならば、この文章自身すら独立な真理性を有てなくなるではないか、それは何か社会的存在に他律的に順応する外はなくなるではないか、と。併しその所謂独立性とは何か。夫は理念[#「理念」に傍点]の独立性のことであろう。理念の独立性、夫は理念が何等か理念以外のものから無関係であり得ることの外にはないであろう、必ず関係しなければならないならば独立ではなかろうから。そこで真理という理念がそれ自身以外のものへ働きかけ[#「働きかけ」に傍点]なくても済ませること、之が論理の所謂独立性――自律――であるのか。併しそれは吾々自身が初めから主張していたことの外ではない、曰く、理念は現実に対して無力[#「無力」に傍点]であると。吾々は少くとも社会的存在が論理の理念を造り出す[#「造り出す」に傍点]などとは云わなかった。凡そこのような天地創造説は吾々の知ったことではない。その限り論理は確かに大丈夫独立性を有っていないのではない。論理の自律への関心はこの程度で満足させるわけには行かないであろうか。
吾々はもっと実になる本筋へ帰ろう。と云うのは、論理は之以上の[#「之以上の」に傍点]独立性を有つ必要がないと云うのである。併しその代りに今度は、論理は一切の存在との連帯性[#「連帯性」に傍点]を有たなければならない、今は何よりも之が大事である。元来論理の使命は他の一切の存在を解明することにあったのではないであろうか。この使命をどう果すかを決定するのを忘れた論理は、それが自律的・独立的であろうと無かろうと、少くとも吾々の理論の連鎖の上では無用である。――さて今此等一切の存在を社会的存在として集約して見よう。そうすれば論理が終局的に社会的存在に依存するということに何の不思議があるであろうか。そして今は形態的決定の場合であったから、この依存関係が不可逆的でなければならなかった(第一の点を見よ)。社会的存在は論理のこの連帯性の故に論理形態を決定し得たのである。之が第二の点である。
実際、論理(即ち又真理)とは、例えば論理的整合というような形式性にあるのではなくして存在の内容的連関の内に横たわる処の関係であるであろう。之が
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