活熨カ在の論理[#「存在の論理」に傍点]・客観的論理[#「客観的論理」に傍点]・内容論理[#「内容論理」に傍点]等々の概念に外ならない。論理構成の動機、その動力は、存在の内に横たわる。論理は存在の云わば自己表現[#「自己表現」に傍点]であり、それであればこそ人々は論理を通路として存在へ通達し得ると考えるのである*。論理は常に存在への[#「存在への」に傍点]道に過ぎない。理論をしてこの道を歩ましめる動力は無論、その目的である存在の内にあるのであって、論理は却って理論が通過した痕跡に過ぎないであろう。痕跡はただ、後から観想し得るだけである。それ故人々が論理を観想的に取り扱うことによって之を反省する時、初めて論理は自給自足の動力を有った整然たる遊歩道となり、所謂独立化[#「独立化」に傍点]して来るのである。このような独立化は併しやがてかの連帯性の回避を意味する。何となれば論理の動力が存在にあってこそ論理が之を解明する連帯責任を有つのであるのに、反対に存在がもはや論理構成の動力を提供しなくて好いならば、存在は一体論理に対して何を為したら好いのか。そして論理は存在へ何の義務を負わねばならないのか。二つは連帯を断たれて各々独立する外はあるまい。強いて両者を連結しようとすればヘーゲルの口吻に倣って――ヘーゲルこそ論理を独立化したと云われる(汎論理主義)――、論理的なるものは存在的である、とでも云わねばならない。――さてこのような位置を占める存在が社会的存在によって代表的に理解せられる理由があるのである**。
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* 思うに言葉[#「言葉」に傍点]はこの表現の乗具である。それであるから言葉も亦――論理に準じて――純論理的に・情意的に・修辞的に・そして又社会的に・規定されることが出来るであろう。
** 論理――思惟・知能――が何か特別な独立的存在と考えられることによって、論理学が一切の存在との連帯性を失うということを指摘したのは J. Dietzgen の率直な一文章である。恰も、国民の富を国民の貧困から独立化し、前者を後者との連帯に於て把握し得ない経済学と同じに、このような論理学はただ教授達の支配者論理学でしかないと、この靴工は云っている。真の論理学は之に反して、論理をば全世界との連関に於て、全面的に追求し発見する、それは彼によって「民主主義的・無産者的・民衆論理学」と呼ばれる「階級論理学」の一つの場合である(〔J. Dietzgen, Briefe u:ber Logik, speziell demokratisch−proletarische Logik.〕 を見よ)。
タルドの「社会的論理」の如きはそれ故、単に偶然な類推と解釈されるべきではない。もし論理が社会的性格を有つならば逆に社会が論理的であると考えられるのは自然である。社会が推論式を有っており、この推論式を介して歴史的推移が行われる、と考えることには理由がなくはないであろう(G. Tarde, La logique sociale, p. 63 其の他を参照)。
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社会を吾々は社会形態[#「社会形態」に傍点]として理解する。之を形式主義的[#「形式主義的」に傍点]に理解することを、吾々の理論に於ては絶対に許さない。もし社会を一旦形式性に於て規定しておいて、後からそれの内容――それは歴史[#「歴史」に傍点]である――を付加・※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入しようとするならば、この内容は現実内容としての規定を抽象されたものであり、内容一般としての形式的[#「形式的」に傍点]なるものを出ることが出来ない。この種の警戒を吾々は繰り返した。社会のこのような――云わば社会学的[#「社会学的」に傍点]――分析に於ては、歴史は現実内容として内容的・質料的原理を有つものとしてではなくして、原理を形式に仰がねばならぬ処の任意の可能的素材として、片づけられて了うのが常である。社会のそのような概念は、自らを一応歴史的であるかのように見せかけるにも拘らず、その歴史性が可能的素材の資格しかないのであるから、現実的ではあり得ない。それが歴史的でない証拠なのである。たとい社会の諸規定が無論天降りにではなく、現実の歴史の内から引き出されたものであると云って見ても、問題はそもそも、その引き出し方――抽象法――の如何にあるのだから、一向変りがない。吾々は之に反して社会を社会形態として理解する。この形態を決定するものは、現実としての歴史[#「現実としての歴史」に傍点]の外にはない*。
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* 社会形態という言葉は、デュルケムの morphologie sociale を連想させるかも知れない。併しそこでは少くとも歴史の現実性[#「現実性」に傍点]は、そのものとしては抽象し去られている。吾々にとって注意すべきは、そこで取り扱われるものが社会典型[#「典型」に傍点](types sociaux)であって、社会形態[#「形態」に傍点]ではないという点である。吾々は前に形態を典型から区別した(〔E. Durkheim, Les re`gles de la me'thode sociologique,〕 p. 143 参照)。
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吾々は、一般に、存在性の代表的なるものを、現実[#「現実」に傍点]性に於て見出す。現実こそ存在の優越なる本質性であり原理であると考えられる*。歴史はそして恰もそのような現実性の保持者に外ならない。現実性は歴史に於て特に現在性[#「現在性」に傍点]となって現われるものである**。歴史の現段階としての現代[#「歴史の現段階としての現代」に傍点]がそれである。歴史的現段階は併しながら、例えば一定量として停止している絶対単位や又はエレア的一点ではない。それは前段階と後段階とを媒介する契機としての微分点に、生産的な運動点に、而も現実的な延長を有つ線分に、一応譬えられて好い性質を有っている。歴史的現段階の現実性はただ運動の契機[#「契機」に傍点]によってのみ――その継続時間とは関係なく――保証され、而も有限な単位を与えられることは注意されるべきである。処が歴史のこの運動は人々の行動の関門を通過して初めて実現[#「実現」に傍点]されるであろう。現実とは、もしそれが実現を俟つ概念でなければ佯《いつわ》りである。かくて歴史の現実性――歴史的現段階性――は或る意味に於ける実践[#「実践」に傍点]概念を俟つのでなければ誤りであるであろう。歴史的現段階は或る意味に於ける――その意味は次を見よ――実践から切り離されることが出来ない。
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* 社会的存在が何故存在の代表者であるかは、茲に明らかである――前を見よ。蓋し社会的存在の内容が――夫は歴史であった――最も現実的[#「現実的」に傍点]だからである。なお存在の最も優越なる存在性を現実性(Wirklichkeit)から区別されたる意味で、例えば実在性[#「実在性」に傍点](〔Realita:t〕)であると考えることは、原理としての現実性[#「原理としての現実性」に傍点]を理解しないことに由来するであろう。
** 現在性は要するに優れて限定された質料性[#「質料性」に傍点]である。それ故歴史の現実性は他の関係に於て物質性[#「物質性」に傍点]となって現われることが出来る。
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往々にして過度に尊重され又は過度に軽視されるこの実践という概念を、或いは単に倫理的合言葉として、或いは単に実用主義的道具への交渉として、或いは単に利用厚生の仕方として、思い浮べてはならない。実際人々は単に意志的であることを、又は単に主知的でないことをさえ、軽々しく実践的と考えはしないであろうか。吾々の実践概念はそうではなくして歴史的運動の実現[#「歴史的運動の実現」に傍点]――歴史的変革――であった。この意味に於ける実践の最も優越なる形態は、政治[#「政治」に傍点]であるであろう(この言葉は現在充分の広さに於て行使されている)。何となれば、任意の事物に関する個人的行動が、苟くもその事物の歴史的変革に関係し得る時、それは必ず政治的意味を有つのであるから。――それ故歴史的現段階は今や、就中政治的[#「政治的」に傍点]なるものとして理解されるべきである。
前に帰ろう。論理形態を決定するものは社会であり、更にこの社会の形態を決定するものが歴史の現実性であった。そしてこの現実性が就中政治的であったのである。従って論理形態は政治的に決定される[#「論理形態は政治的に決定される」に傍点]わけである*。性格的論理――吾々が今論理と呼ぶのは常に之である(前を見よ)――は政治的性格[#「政治的性格」に傍点]を有つ。蓋し性格的論理の性格という言葉は、結局、就中この政治性を云い現わすのであった。茲では論理と政治とが一致する、理論[#「理論」に傍点]と実践[#「実践」に傍点]とが統一を得る所以である**。
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* 政治形態[#「政治形態」に傍点]が更に何によって決定[#「決定」に傍点]されるかは他の場合の問題としよう。――吾々は唯物史観[#「唯物史観」に傍点]を仮定して好い。
** 吾々は praktische Theorie, theoretische Praxis 等々の言葉をもつ(例えばディーツゲン前掲書を見よ)。
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[#3字下げ]三[#「三」は中見出し]
此処まで用意して来て初めて吾々の最初の課題が解かれる。問題選択に於ける歴史的必然性乃至遊離性が、理論内容に於ける論理的真理性乃至虚偽性として、反映し得るか、又如何に反映するか、という課題の解答を。
歴史的運動が就中政治的であったから、問題の選択は政治的であると云い直そう。さて問題の変化は政治的であり、理論の変化は論理的である、之は吾々が初めから認めてかかった処である。そこでこの二つの変化は夫々独立の動力に基いた独立の変化であるように見える。問題の選択は政治的であって、それ故、論理的ではあり得ないように見える。例えば人々は云うであろう。理論は一定の問題を予想して之から出発して論理的に組織立てられるに違いはない、一旦一定の問題を許せば後の事柄は論理が独りで決定出来るであろう、併し如何なる問題を選ぶかはもはや論理の与り知ったことではあり得ない、それは要するに人格[#「人格」に傍点]とか体験[#「体験」に傍点]とか――いやな言葉であるが政治と云っても好い――が決定するのである、と。問題の選択はかくて政治という超論理的な論理外の勢力に帰せられることになるであろう。――処が恰も論理形態が政治的に決定されることこそ吾々の得た結論ではなかったか。そうすれば茲で政治的に[#「政治的に」に傍点]問題が選択されるとは、それが論理に於て、論理内の勢力によって、論理的に[#「論理的に」に傍点]選択されるということに外ならない。政治的な問題選択も政治的性格をもった論理の勢力内にぞくする。如何なる問題を選ぶかは全く論理的な問題でなければならないのである。かくて政治的問題選択は論理的な夫として反映し得、又反映しなければならない、ことが結果する。故に問題選択に於ける歴史的必然性乃至遊離性は、理論の論理的真理形態乃至虚偽形態として反映し得なければならない。――之れが第一段の解答である。
如何に反映するか。それを見れば第一段の解答は実地に検証されるわけである。之が第二段の解答となる。――但し反映は無論形態的[#「形態的」に傍点]にである。
第二段の解答に来る。
歴史は代表的な生成的存在であろう。歴史は変化し展開することをその第一規定とする。それにも拘らず歴史は、伝統として・制度として・又秩序として、自らを固定する性質を有つ。固定した限りのものは固定する原理を自らの内に有っているか
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