ら、変化を原理とする限りの歴史からは遊離することが出来る。歴史は自らを自己の地盤から遊離せしめることが出来る。之が歴史社会的存在の歴史的運動に於ける遊離性[#「遊離性」に傍点]と呼ばれたものなのである。さて理論も一つの歴史社会的存在として、その歴史的運動に於て自らを遊離せしめることが出来る。この遊離性が或る種の論理的虚偽[#「論理的虚偽」に傍点]として事実反映して来るであろう。歴史的遊離性がすぐ様論理的虚偽ではない、それは単に遊離性にしか過ぎないであろう、併しそれが理論に反映することによって、改めて虚偽として自己を表現すると云うのである。それはこうである。歴史社会的地盤を遊離した諸理論は、みずから掲げた一応の問題をしか解くことが出来ない。なる程どのような理論にあっても、選択された問題は、それが提出された問題提出の仕方に沿うて、必ず一応は解かれることが出来る性質を有っている。遊離した理論は併し、ただみずから選択した一通りの問題をしか解き得ないのであって、進んで必然的に他の諸問題を解くことが出来ない、と云うのである。元来、問題らしい問題は、それが一旦解かれることによって必ず次の問題を解くべく提出することが出来る性質を有っているのである、真の問題は諸問題の無限の系列の一項に相当しているものなのである。処が今の場合、このような次ぎ次ぎの必然的問題がもはや提出され得ず況して解き得ない。このような理論は、相不変おきまり[#「おきまり」に傍点]の問題を解いて了えば、もはや解くべき問題を有たなくなる、初めから何かの展望があってこの問題を選択せねばならなかったのではなくて、云わば系外へ遊離した物体のもつ惰性故に、漫然とこの問題が取り上げられたに過ぎなかったからである。理論は行きづまり、問題は欠乏する。強いて問題を見出そうとすればそれ故、そこにあるものは捏ね回しでしかあり得ない。捏ね回した揚句に出て来る問題は当然、結局元の相不変の問題であり、その解決の結果も結局初めの結果と大同小異であるであろう。解決の結着は初めから判っている、解決とは話を予定の落着に落す落ち[#「落ち」に傍点]でしかない。もし世間的に云って所謂八百長が一つの罪悪であり、落語が滑稽に感じられるとすれば、理論に於てもそれは一種の俗悪なる論理的虚偽でなくてはならない。之は理論の停滞性[#「停滞性」に傍点]なる虚偽形態に統一されるであろう。歴史的遊離性はこのような論理的虚偽形態として反映するのである。――処がこのような虚偽形態は必ずしも虚偽として自覚されるとは限らない、多くの場合之は無意識的[#「無意識的」に傍点]に犯されるであろう。実際この虚偽形態は、却って最も尤もらしく[#「尤もらしく」に傍点]見え、正常・妥当な真理としてさえ信用を博すのが常である。この虚偽が自らを虚偽として自覚するためには更により強度の真理意識――何となればこの虚偽でもとに角一旦真理として意識され得るのだから――を必要とする。行きづまった理論の代りに、前途への展望と展開とを有った理論、問題の無限の系列が次ぎ次ぎの項を必然ならしめるような問題を捉えている理論、之に於てこそそのような強力な真理意識が横たわる。このような理論にして初めて、かの無力な理論をしてその虚偽を暴露せしめ得るような論理的真理を有つ。之は理論の展開性[#「展開性」に傍点]としての真理形態である。さてこのような真理形態を有つ理論の出発点となる問題は、歴史社会的存在の必然性[#「必然性」に傍点]に於て選択されたものに外ならない*。故に歴史的必然性が論理的真理として反映するのである。かくて問題選択に於ける歴史的遊離性と必然性とは、夫々、理論の停滞性[#「停滞性」に傍点]と展開性[#「展開性」に傍点]として、一定の論理形態を反映したのを見るであろう。――併し場合をもっと具体的に進めよう。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 歴史に於てはその遊離性と雖も或る意味の必然性をもつ、今云う必然性は之とは異って遊離性に対する地盤性[#「地盤性」に傍点]を指す。――之は社会に於て例えば必要性[#「必要性」に傍点]となって現われる。
[#ここで字下げ終わり]
歴史的運動の必然性に於てあるものは、台頭的契機[#「台頭的契機」に傍点]として現われ、その遊離性に於てあるものは没落的契機[#「没落的契機」に傍点]として現われる。蓋し歴史的運動はその必然性によって運動するのであるが、遊離性は必然性からの脱落としての必然性を有つのであったから、遊離性の必然性は自己矛盾する必然性として、歴史的必然性によって清算・淘汰されて行くべき運命をもつ。遊離性に於てあるものが、必然性に於てあるものの台頭によって、没落せしめられることが、とりも直さず歴史的運動の必然性なのである(但しここに契機と名づけられた二つのものは、もはや決して無限小の微分的な二つの分野ではない、そうでなくして有限的に捉えることの出来る二つの分野として存在[#「存在」に傍点]する。――例えば歴史的役割を担った階級として)。それであるから没落的契機は存在に於ける矛盾[#「存在に於ける矛盾」に傍点]――まだ論理的[#「論理的」に傍点]矛盾ではないことを注意せよ――を含み、之に反して台頭的契機はこの矛盾を止揚し解き披くことを歴史的に必然にされている。さてこの存在的矛盾とその止揚とが夫々、論理的矛盾とその止揚として、論理的虚偽形態と論理的真理形態とになって、反映することを今見よう。
真理は常に代表的真理であったことを茲に思い起こす必要がある。というのは真理内容は常に部分的であって而も真理という全般を代表する資格を有つのであった。真理は云わば abschatten する、常に或る一面のみが照され透明となる。そこで今まで姿を見せなかった真理の新しい一面が、理論の歴史的推移に応じて、歴史社会的運動の一部にぞくするものとして、展開して来るのが事実である。従来日程に上らなかった真理内容が、一定の歴史的段階に当って、必然的に、初めて注目され・重大視され・そして問題化[#「問題化」に傍点]されて来るであろう。之に反して今まで注目の焦点であった諸真理内容は、もはや片づいたものとして、云い出でる必要のないものとして、即ち取り立てて主張して見ても何等理論上の効果を有たなくなったものとして、真理の陰影の側に回される。強いてこの真理内容を固執し、従って新しく問題化されて来た内容に対して代表者としての位置を与えることを拒む時――この動機も歴史的に必然でないのではない――、陰影に回された真理はやがて積極的に虚偽の役割を以て登場して来る、之は歴史的運動に起こる事実上の推移の結果である。――処で今は、歴史的因果に於けるこの結果[#「結果」に傍点]が、実は同時に、論理的発展に於ける帰結[#「帰結」に傍点]となって反映するということが大事である。という意味は、歴史的推移以前の理論が、推移以後の理論へ、単に推移したのではなくして、後者によって批判[#「批判」に傍点]される、ということである。そしてこの場合批判は無論理論的[#「理論的」に傍点]であるのである。前者は論理的――存在的ではない――矛盾として、後者はその止揚として、相会するという関係が必ず横たわっていると云うのである。尤も前者自身の立場に立って見られる時、原則としては、何の矛盾を含むとも考えられないであろう、どのような理論も夫々の立場に於ては論理的に整合であるべきであり又そうあることが出来る。併し前者の立場に、新しく重大視されて来た問題[#「問題」に傍点]を付加して、之を一体として統一しようとすれば、前者が事物を全面的[#「全面的」に傍点]に把握する代りに一面的[#「一面的」に傍点]に、徹底的[#「徹底的」に傍点]・根柢的[#「根柢的」に傍点]に追跡する代りに不徹底・皮相に取り扱っていたことが顕わとなって来るのであり、このような前者の弱点が、後者の拡張された立場から見ればとりも直さず矛盾の形式を踏んで来るのである。後者の立場から前者の立場の矛盾を指摘しようとすれば、この矛盾は前者だけの立場には無かったのだから、前者がこの指摘を単に自身を危く[#「危く」に傍点]するものとしてしか評価出来ないのは自然である。前者から見れば後者は単なる前者の否定[#「否定」に傍点]、単なる対立[#「対立」に傍点]でしかない。併し後者から見れば後者は単なる否定ではなくして止揚――否定の否定――であり、単なる対立ではなくして正にその対立自身の現実的な否定であるのである。かかる現実的な否定によって後者は、前者への対立者としての自己をも止揚するのである。この関係をもし前者から見れば、寧ろ後者の否定[#「後者の否定」に傍点]こそ、例えば後者程極端[#「極端」に傍点]に走らないことこそ、自己と後者との中庸[#「中庸」に傍点]こそ、所謂否定の否定と考えられるかも知れない(人々の云う否定の否定――総合――とは多くこの類である)。今は後者から見るから、後者の否定ではなくして後者自身が、前者の真の否定の否定であるのである。このような否定の否定が初めて批判的[#「批判的」に傍点]であることが出来る、批判者はこの意味に於てのみ被批判者を止揚するのが事実である。単なる内在的批判[#「内在的批判」に傍点]――夫は被批判者の立場からする――はそれ故元来批判の名には値いしない、批判とは常に超越的批判でしかない。そして大事なことは、この超越的批判が被批判者にとっては超越的に見え[#「見え」に傍点]るに拘らず、批判者にとっては被批判者に対して[#「被批判者に対して」に傍点]やはり内在的である[#「ある」に傍点]、ということである。それ故論理に於ては超越的批判が内在的批判に歴史上先立つ。内在的批判によって矛盾が発見されたが故に超越的批判が惹き起されたのではなく、予め超越的批判をなしたからそれが内在的批判となり得たのである。論理はその論理的矛盾を動機・動力として之を止揚するのではなくして、予め止揚の現実情に立つから初めて論理的矛盾を発見[#「発見」に傍点]する動機を得るのである。この動力はそれ故もはや論理にあるのではない、論理は自己自身に具った論理的矛盾を動力として運動するのではない。歴史社会的運動が先ず先立ち、この運動によって止揚者へ新しい問題[#「問題」に傍点]が提出され、この新しい問題を解き得ないものとして、初めて矛盾者が矛盾者として発見されるのである。論理的運動の動力は従って論理自身の内にではなくして歴史的運動の内に横たわる。論理的矛盾[#「論理的矛盾」に傍点]の動機は歴史社会的運動に於ける存在的矛盾[#「存在的矛盾」に傍点]の外ではない。論理的運動は歴史的運動の自己表現・反映である、かくして理論の歴史的推移は、論理的な批判[#「批判」に傍点]として理論内容へ反映する。没落的契機に於ける理論は、論理的矛盾を含む被批判性[#「被批判性」に傍点]――矛盾性[#「矛盾性」に傍点]――として、台頭的契機に於ける夫は之に反して、この矛盾を止揚する批判性[#「批判性」に傍点]として、夫々歴史的段階を一定の論理形態として反映する。蓋し批判とは歴史的運動に於ける二つの契機が相会する処の危機[#「危機」に傍点]の、論理的反映であるであろう。――理論のかの停滞性と展開性とは、今やかかるものとして現われるのである。それ故又問題選択[#「問題選択」に傍点]の可否は、理論のこのような一定の真偽形態として見出されるべき筈である。
尤も又、被批判者の位置にあると考えられたもの、即ち被止揚者は、その被批判性を自覚しないのを寧ろ通則とするから、批判者に対して逆批判をなし得るように空想するのが常である。併し歴史的運動に逆行するかかる逆批判は元来批判ではなかった。そして実際、逆批判者は原理的に、批判者がもつ歴史的に必然な問題[#「問題」に傍点]に対して無知であることを注意しよう*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 批判に当っては批判するものの批判者とし
前へ
次へ
全27ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング