ての資格がまず批判されるべきである。但し夫は高々年齢・名声・地位等々の世俗的標準又は時の前後というような年代記的標準によってではない。形態的[#「形態的」に傍点]に之を求めれば、標準は歴史的台頭性と歴史的没落性とが切り合う処に横たわる。
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場合を更にもう一歩具体的にしよう。台頭的契機と没落的契機とが相会する危機とは、常に歴史的現段階の代表的な場合に相当する。何となれば、現段階の時間的延長や、時間的位置は、単に時間の数量的区画に基くのではなくして、この時間を歴史的時間として経過する歴史的運動[#「運動」に傍点]を単位として時代区分を与えられるのであるが、この歴史的運動がとりも直さずこの二つの契機の関係を以て性格づけられるのであったから。そして歴史的現段階は、充分に広い意味に於て政治的性格を持った――前を見よ。さて今この政治性が、没落的契機に於て、事実を歪曲するという意味での所謂政策[#「政策」に傍点]――低劣なる意味での政策――として現われないわけには行かないことを注意すべきである。歴史的運動の状態は、客観的事実は、恰も没落的契機に於てあるものの没落を告げている。そこでこの契機に於て取られる政策は、事実をありのままに正直に捉えるのであっては、それ自身が無政策を意味することとなる外はない。それ故茲ではもはや、正直が最上の政策ではあり得ない。政策はただ事実を歪曲してのみ政策であることが出来るのである。今、この低劣な意味に於ける政策を必要とするような契機に於てある歴史的状勢は、この契機に於て成立する理論の内容へ、一定形態の虚偽として反映されるであろう。夫はこうである。理論は一般に所期の結論を先取する――前を見よ。理論のこの特色は必ずしも事実歪曲を生命とする限りの政策にのみ固有なのではない、それは一般に政策と呼ばれるものを通じて最も著しい特色である。処が今の場合の所謂政策に於ては、元来それが事実を歪曲していたのであったから、所期の結論が事実のために絶えず裏切られ勝ちなのは当然であろう。そこでこの裏切を封じて所期の結論――それが実は事実の歪曲でしかなかった――を固執し得るためには、理論は様々の人工的又は慣性的不自然――事物の特色に対する不自然――を敢て犯さなければならなくなる。かくて例えば事物の中核は周辺に押しやられ、至極周辺に位置すべき要素は中心に持ち込まれ、重大さに於て質的な相違ある二つの要素を量的に――同格に――並立するかのように取り扱い、偶然なるものを必然であるかのように強い、本質的なるものと非本質的なるものとを混同し、事物の正面と側面とを捉え違える等々、一言で云うならば事物の性格[#「性格」に傍点]は――意識的にか無意識的にか――取り違えられるであろう(元来事物の性格は――その理解は――歴史的条件に基いて時代々々によって必然的に一定している、従って性格を把握しちがえることは、時代錯誤[#「時代錯誤」に傍点]の代表的なるものなのである)、理論の策略[#「策略」に傍点]から云って、事物の性格をこのように取り違えることが事実必要であったのである。かくて性格の蹂躙は、苦肉又は常套の、苦しき又は尤もらしき、奇矯又は俗流の、理論の権謀[#「権謀」に傍点]の条件となるためのものなのである。所謂政策に訴えなければならなかった歴史的状勢はこの没落的契機を、理論に於ける権謀性[#「権謀性」に傍点]として反映する。之が求める処の虚偽形態であった。――無論この権謀性は、政策が真理から離反した利害として、論理外の勢力となって働く処から由来する。併しこの利害が利害として、即ち権謀が権謀として、意識されないことを、それは妨げない。もし夫が意識されるならば、権謀は今や欺瞞[#「欺瞞」に傍点]となる*。かの歴史的状勢は今や、理論に於ける欺瞞性[#「欺瞞性」に傍点]として反映する。――蓋し理論のかの停滞性及び矛盾性(被批判性)を蔽うためには、事実、権謀乃至欺瞞の虚偽形態が必要となって来るであろう。
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* 虚偽が意識的であるかないかは、云わば良心[#「良心」に傍点]に相対的ででもあろう。人々はこの区別に深く執着すべきではない。
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台頭的契機に於ける政策は之に反して、事物を歪曲する必要も余地も有たない。何となれば、一方に於て、台頭的契機は歴史的運動の必然性に従うものの謂であり、他方に於て、この場合の政策――政治――は歴史的運動に従う実践的変革を意味するのであったからである――前を見よ。政策と台頭的契機に於てあるものが一致するからである。茲に於ては政策が事実の最も正直な把握であることが出来、またそうなければならない。さて台頭的契機から動機された理論は、それであるから、同じく台頭的契機に於て取られる政策――それこそ真正の意味での政策である――を、正に論理内の勢力として、論理自身の強みとして、取り入れることが出来る。そのような理論は存在を解明するのに最も有力強力であり、従って存在を把握するのに最も、実践的[#「実践的」に傍点]であることが出来る。そしてこの実践性こそは、正に理論が今有つ真理形態[#「真理形態」に傍点]に外ならないのである。何故なら、存在の解明こそ論理の使命であったし――前を見よ――、そしてこの存在が歴史社会的存在によって代表されたのであるから、存在の解明はその歴史社会的――実践的――把握によって代表されるわけである、処で論理がその使命を最も能く果すことは真理[#「真理」に傍点]の理想でなくして何であるか。かくて台頭的契機に基く政策は理論内容へ、実践性[#「実践性」に傍点]という真理形態として、反映することが明らかとなる。蓋し茲に於ては政策と理論とが二重の意味に於て一致する。第一は客観的な政策が理論自身の構論の政策として理論計画に反映し、真理[#「真理」に傍点]内容構成の骨格となること。第二は政策が理論をこのようにして決定するばかりではなく、逆に理論が充分の権利を以て政策を決定し、政策成功[#「成功」に傍点]の展望を与え得ること。試みにこの二つの点を、没落的契機に於ける低劣な意味の政策に当て嵌めて見よ。そこにあるものは理論の虚偽[#「虚偽」に傍点]と政策の失敗[#「失敗」に傍点]でしかない。――今や理論のかの展開性乃至批判性は理論の実践性[#「実践性」に傍点]として現われる――前を見よ。
問題へ帰ろう。問題は歴史社会の客観的状勢に基いて政治的・政策的に選択される。処が今、この政治性――政策――の二つの場合が、夫々理論の真理形態及び虚偽形態として反映するのを見た。それ故どのような問題を選択するかによって、その問題に動機されて展開する理論は、或いは真理性を或いは虚偽性を有たねばならない。問題選択の可否[#「問題選択の可否」に傍点]は常に、之に動機された理論の論理的真偽[#「理論の論理的真偽」に傍点]として突き止め得られるわけである。
吾々は今迄、分析を「問題」への関係に限って来たのであったが、この制限を撤廃しても、吾々の求め得た処は一般に成り立つであろう。一般に、歴史的運動に於ける必然性と遊離性・その台頭的契機と没落的契機は、夫々、理論に於ける一定の真理形態と虚偽形態として、反映する。歴史社会的存在――之こそ優越なる意味の存在である――は、政治的に、一定の論理形態を、即ち真理と虚偽との一定形態の関係を、決定するものである。注意すべきは、単に、理論乃至科学が歴史社会的存在であると云うだけではない。それは何か文化社会学乃至知識社会学の問題ででもあろう。又その真理内容の単に個々の場合々々が夫々の仕方に於て歴史社会的に制約され得ると云うだけでもない。そうではなくして真理の一定形態と虚偽の一定形態とが、不離に結び付いた一定の論理形態として、原理的に――偶然にではなく――歴史社会的制約を受けるというのである。性格的理論の個々の論理内容の一定群が、単に夫々の仕方に於て政治的制約を有つばかりではなく、それらが一定の論理形態に必然的にぞくする限りの[#「一定の論理形態に必然的にぞくする限りの」に傍点]個々の論理内容として、政治的に制約されると云うのである。そして更に注意すべきは、論理のこの政治的性格が、論理的[#「論理的」に傍点]なる内容の資格に於て活動するのであって、論理外の勢力として論理の外部から働きかけるのではない、という点である。もし政治的価値[#「政治的価値」に傍点]という言葉があるならば、政治的価値の最も代表的なるものと、論理的価値[#「論理的価値」に傍点]の最も現実的なるものとは、一つであるのである。実際、論理又理論が、常に批判的・止揚的であるのをその最も特有な生命とすることは、人々が一般に承認する処であろう。論理的なるものを審美的なるものに比較するならば、このことは明らかであるであろうから。処が歴史的社会の歴史的運動こそ、正に批判的・止揚的であるであろう。この運動はそして政治的なるものによって最も優越に段階づけられた。――それであるから今や、人々は例えば次のような紋切型の質疑を口にすべきではない。単に歴史的事実にしか過ぎない歴史的必然性[#「歴史的必然性」に傍点]から、如何にして凡そ価値[#「価値」に傍点]にぞくするもの――真理・自由等々――の規定を引き出し得るか、と。蓋し人々によれば、歴史的なるものは単に偶然的にしか過ぎず、価値的なるものは之に反して本質的・永遠的であると考えられる。存在の偶然が妥当乃至当為の永遠性に干渉することは、許すべからざる冒涜であるかのようである。処が実は、少くとも論理は――他のものは暫く之を措き――政治的性格を有つのであった。真理と虚偽との価値関係の一定形態が、事実、歴史社会的必然性によって決定され得るのであった*。歴史が一定の論理的価値をして論理的価値たらしめるのである。
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* 論理が之以外の仕方によって歴史社会的に制約される点に就いては、他の機会に一般的に之を取り扱うであろう。
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もし吾々の結論を一言で尽すならばこうである。歴史社会的存在[#「歴史社会的存在」に傍点]の弁証法的[#「弁証法的」に傍点]構造が、性格的論理[#「性格的論理」に傍点]の論理形態[#「論理形態」に傍点]へ反映するのである、と*。蓋し性格的論理とは元来、歴史社会的存在の歴史的現段階によって――政治的に――制約されてあるべき一つの――代表的な――論理典型の謂であったであろう。
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* 歴史社会的存在の弁証法的構造が、他の仕方に於て論理へ反映する点に就いては、他の機会に譲ろう。
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最後に一項を付録する。もし人々が一定の理論の真偽に敏感でありたいならば、之と他の諸理論――卓越した又は愚劣な――との連帯[#「連帯」に傍点]に注意することが望ましい。個人がその連帯を自覚するとしないとに拘わることなく、如何なる思想も、歴史社会的意味[#「歴史社会的意味」に傍点]に於て、或る一定の諸思想と連帯関係にあるのである。之は論理と存在との連帯性から必然であったであろう。蓋し論理の代表的なるものは性格的論理であったし、存在の優越なるものは歴史社会的存在であった。人々は従って、自己の思想を所有してその理論を構成することによって、常に、連帯者たる他の諸思想への歴史社会的責任を担う。論理が政治的性格を有つ所以はここにも明らかである。そしてみずからの理論がどのような一定の諸理論と連帯であるかを決めるに役立つ第一の標準こそ、恰も、如何なる問題[#「問題」に傍点]を有つか、である。
[#改段]
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無意識的虚偽
――この文章は、「論理の政治的性格」の名の下に書かれた事柄をその半面から、そしてより簡単に、取り扱ったものである――
[#ここで大見出し終わり]
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虚偽と
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