いう概念と真理という概念とは、単に概念としては夫々独立な概念である。虚偽はあくまで真理ではなく、真理はあくまで虚偽ではない。併し実は、単なる概念としての虚偽、虚偽それ自体、というものは存在しない。存在するものは、一定の内容規定を持った限りの虚偽な或るもの[#「或るもの」に傍点]――虚偽な主張・学説・報告・等々、――だけである。真理も之と同じく、真理という性質を有つ或るもの[#「或るもの」に傍点]としてしか存在しない。さて虚偽な或るものは、虚偽それ自体というようなものとは異って、時としては、真理である処のものに成る[#「成る」に傍点]ことが出来、そして同じく真理であるものは時として、虚偽であるものとなる[#「なる」に傍点]ことが出来る、という事実は注目に値する。前に真理と思われたものが、後になって虚偽として見出され、後に真理として意識されたものも、以前には虚偽と考えられていた、ということは往々であるだろう。
従って真理も虚偽も、夫々の又相互の、歴史的運動に於てしか、実質的に語られることは出来ない。それ故、真理を虚偽から独立に、それから引き離して、語る権利を人々は有たないのである。処で、虚偽という言葉が、真理という言葉の存在を俟って初めて、行使される理由を見出すであろうのに、逆に、真理という言葉は必ずしも虚偽という言葉の存在を仮定しないでも用いられるから、というのは、虚偽は真理の標準を脱することによって初めて虚偽と名づけられるのだから、それであるから一般に、虚偽というものは真理というものよりも、次元が一つ先に進んでいると云って好いであろう。真理を有つものが仮に神であるとするならば、神が一歩次元を進めて、人間の世界にまで堕ちた時、初めて人間的虚偽が成り立つのである。今、神を理想[#「理想」に傍点]とすれば人間的世界は現実[#「現実」に傍点]に相当するだろう。そこで真理を理想と等置すれば虚偽は正に現実と等置されるべきである。処が理想と呼ばれるものはただ現実にとってのみ欲求の対象であることが出来る。理想を追求することは現実から出発すること以外に自らの動機をもつものではない。もし現実の内に理想への鞭がないならば、現実の内で現実的に生きている吾々人間にとって、理想は一体どこから来る縁があるのか。現実から出発する外はないということは凡そ人間的存在の根本的規定であるであろう。この現実としての虚偽から――理想としての真理からではない――吾々は今出発する。吾々は真理に関する問題を却って、虚偽に就いての問題として意識する。
人々は愛すべき又哀れむべき、同情すべき又悪むべき虚偽に於て生きている。吾々は今、何か宗教的な意識に立ってそう云うのでは必ずしもない。そうではなくして正に理論的[#「理論的」に傍点]乃至論理的[#「論理的」に傍点]な意識に立って、愛すべき又憐むべき、同情すべき又悪むべき虚偽を事実眼にする、と云うのである。
人々は、誤謬[#「誤謬」に傍点]と虚偽[#「虚偽」に傍点]とを区別して次のように云うかも知れない。誤謬は無意識の内に犯した誤りであり、之に反して虚偽とは意識して犯した誤りである、と。誤謬と知りながら之を訂正せず又は故意に真理を抂げることが虚偽であると考えられているであろう。誤謬は誤謬と気付くことによって無論直ちに消滅するのが健全な場合である。併し独り誤謬ばかりではなく、虚偽であっても、このような――意識的誤りとしての――虚偽は、実に容易に的確に虚偽として露顕する、もしくは自らの虚偽自身に飽いて虚言者は自発的に実を吐くことが出来るであろう。何故かと云えばこのような虚偽は――意識して犯されたる誤りとしての虚偽は――とりも直さず意識(良心)の分裂であり、どのように鈍い良心(意識)であってもこの分裂の張力を痛みとして感じることが出来るであろうから。意識して犯されたる誤りとしての、この種類の虚偽は云わば度し易い。吾々が今問題とするのは、このように度し易い意識的[#「意識的」に傍点]虚偽ではなくして、正に虚偽として自覚されない無意識的虚偽[#「無意識的虚偽」に傍点]、虚偽としてではなく却って卓越した真理としてさえ意識され得る処の執拗な虚偽なのである。その誤りが無意識であるからと云って、決して之は単なる誤謬[#「誤謬」に傍点]として見過されてはならないものに属する。その構造は至極複雑であり、その性質は極めて執拗なのであるから、正に虚偽の名こそそれに適わしい。
人は云うかも知れない。無意識的虚偽は、意識を明確に馴《じゅん》練することによって、良心を鋭くすることによって、意識の閾の内に繰り入れることが出来、そしてこの鋭くされた良心の力を借りて屈伏せしめられ得るであろう、と。併しこの希望は実際には多くは裏切られるのを常とする。虚偽が単なる誤謬ではなくして虚偽である以上、それは――例えば主張として――飽くまで自らを保存する意志を常に有つのであり、その意志を実現するためには、おのずから、良心を自分の身方に引き寄せようとするのが必然であるから。尤も良心は元来――従って今の場合には特に――公平であることをこそ、その本分とするかのようであるから、容易には虚偽の甘言に乗りそうにもないと思われるかも知れない。併し実は、良心とは他方に於て確実さ――Gewissen――を意味する、それは一定の意識内容をそのものとして落ちつかせる性質をその場合持っている。それ故人の虚偽が――無論虚偽とは意識せずに――提出する一定の意識内容は、却って良心が一臂の力を貸すべく乗り出す絶好の材料を提供するものでさえあるのである。かくて良心はそれが良心であるが故に、却って無意識的虚偽の保証人となり弁護者となることが出来る。無意識的虚偽は良心を買収するのに成功することが出来る。カトリック教徒も良心を持ちプロテスタントも同じく良心を有つ。欧州大戦は、主としてドイツとフランスとの二つの良心――祖国愛という――の名に於ける同じ良心同志の血闘として意識されはしなかったか。かくて人々は今や良心を――この甘き良心を――あまり信じることを許されない。実際自らの良心を疑うことこそ却って良心的ではないのか。無意識的虚偽は所謂良心に会ってすら消滅しない程、それ程複雑であり執拗である。
理論乃至論理に於て、何がこのように複雑にして執拗な無意識的虚偽であるか。併しながら、無意識的虚偽の一つ一つの場合に就いて語ることは、事柄の性質上出来ることではない。吾々は無意識的虚偽が、原理的[#「原理的」に傍点]・原則的に[#「原則的に」に傍点]、即ち組織的に[#「組織的に」に傍点]、一定の形態[#「形態」に傍点]を有つことが出来る場合についてだけ語ろうと思う。一定形態をもつ組織的な無意識的虚偽、それを今検出して見よう。――単なる個々の虚偽[#「個々の虚偽」に傍点]をではない、そうでなくして組織的な虚偽形態[#「虚偽形態」に傍点]をである。
フランスの優れたる病理学的心理学者 Th. Ribot は※[#始め二重括弧、1−2−54]La logique des sentiments※[#終わり二重括弧、1−2−55]に於て、この問題に対して極めて有効な代表的な示唆を与えている。論理は理想的に云って合理的[#「合理的」に傍点]でなければならない、凡ゆる感情から浄められた冷静な理性によってのみ、論理――推論――は正当に運ばれるのでなければならない。併し実際に吾々を支配している論理はそのような logique rationnelle ではなくて恰も感情の論理[#「論理」に傍点]なのである、そうリボーは考える。感情の論理が合理的論理と正反対であることを示す特色は、感情の論理に於ては結論が先ず初めから与えられ、この予め決っている結論が却って自分に必要と思われる通りの推論を動機する、という点に見出される。それ故この推論に於て必要なことは、この推論によってどのような結論が引き出されるかを見守ることではなくして、予定の結論を引き出すのにこの推論がどの位有効であるかを監視することである。目的[#「目的」に傍点]は初めから決定している、推論はこの目的に仕える手段でしかない。このような事情は冷静なるべき合理的論理にとっては明らかに許されないと考えられる。ただ厳密な論理の煩雑に辟易し又は夫に耐えられない人々か、それでなければより実際的、より実践的な火急の問題を持つ人々かが、このような感情の論理を用いるのであると考えられる。而も凡そ論理が人間の日常の必要にせまられて発達し、必要に応じて初めて用いられる以上、感情の論理は永久に人間の生活の内から消え去る理由を有たないわけである。
推論に対してその推論が帰結すべき結論が予めその目的として与えられると云った。その目的は様々である。一定の情念に就いて一定の結論を得るために、人々は種々なる推論を好み又は嫌う――選択する。幸運なる恋人にとっては一切の事物は喜ばしい、何となれば[#「何となれば」に傍点]――彼又は彼女はそう推論することも出来る――悲しき物の姿も却って喜びを際だたせるために存在するのであるから。之に反して不幸なる恋人によれば一切の事物は味気ない、何となれば[#「何となれば」に傍点]喜ばしく見える物もつまりは幻影に過ぎないから(「悲しき時に楽しかりし過去を思い起す程悲しきはない」)。次に例えば一人の仏徒が頓悟徹底出来たとしよう。その時初めて彼は何故この出来事が自分に於て必然でなければならぬかを推理し始めるであろう。科学者が一つの発見を目論見るならば、その発見へ導くべき恐らく無数の推論が予め構想されるであろう。又政治家は自己の失敗又は野心をば尤もらしい推理を考え出すことによって正当づけようと企てる。扇動家は民衆に向って一定の効果を収めるために、巧言令辞を並べて推理する。民衆がもし彼の言葉と共に推理することが出来たならば彼は所謂雄弁家――修辞家――となるのである。このようにして一般に、感情の論理は、予め与えられたる結論を正当づけるということをその特色とする。そこに支配するものはこの意味に於て先入見[#「先入見」に傍点]に外ならない、そうリボーは付け加える。
さて一定の先入見を意識していることと、その先入見を虚偽として意識していることとは無論全く別である。それ故所謂感情の論理に於ては、一方に於て、無意識的虚偽が這入る余地がないと云うことにはならぬし、そして又他方に於て、先入見を有つという理由によって感情の論理が直ちに無意識的虚偽の論理であるということにもならない。実際先入見それ自身が虚偽に基くか基かないかによって、感情の論理は或いは無意識的虚偽であり或いは夫ではないのである。もし先入見が凡て虚偽であるならば、吾々は何の主張をすることも出来ぬであろう。何となれば何かの先入見に基かない主張は絶対に一つもないであろうから。であるから吾々はリボーから次のことを学ぶことが出来た。第一に、虚偽はその発生の地盤を感情の論理の内に有っている、何となれば合理的論理は原則として虚偽を含まない筈の論理の理想であったのだから。第二に併し、感情の論理はどのような場合に夫から虚偽が組織的に発生し、又どのような場合に却って真理がそれから組織的に発生するかを、それ自身に依っては説明することが出来ない。何となれば先入見とは――之を正当づける推論の正不正とは無関係に――場合々々によって真理又は虚偽であるから、虚偽が感情に基くことは明らかとなった、併し感情[#「感情」に傍点]のどのような形態に基くものが虚偽であるかが未定なのである。そして大事なことは、組織的に虚偽を生むべき感情のこの形態が、感情そのものによって決定され得なかったという点である。かくて一定形態の組織的虚偽を明らかにすることの出来るものはもはや単なる感情ではなくして、もはや単に主観的な意識の機能ではなくして、之の外にあって之の形態を決定する処の何物かでなければならない。
近代に於ける最も意味ある、そして最も独創的な社会学者 G. Tarde はこの点に
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