就いて吾々を助ける(La logique sociale を見よ)。論理は単なる合理的な論理としては現実には存在しない。論理(目的論)は常に、原理的に、信念[#「信念」に傍点](と欲求[#「欲求」に傍点])の論理でしかない。それ故現実に行われつつある排中律は、BがAであるか非Aであるか、ではなくして、Bが如何なる程度にAであり、又如何なる程度に非Aであるかという、その程度[#「程度」に傍点]を云い表わす。この程度がとりも直さず信念(と欲求)の強さ[#「強さ」に傍点]に外ならないのである。人々が主張しようと欲求する命題は原理的に、主張の一程度の強さ、強調のアクセントを有つ。このようなものこそ個人々々が現実に用いつつある処の生きた論理であるのである。タルドはそう教える。さてそうすれば虚偽は人々の信念(乃至欲求)或いはそのアクセントの程度から来る外はない。リボーに於ては虚偽の源泉は感情[#「感情」に傍点]であった。タルドにとってはそれは信念(乃至欲求)の内に、云い換えれば、意志[#「意志」に傍点]の内に横たわる。今までの処二人の考え方には少くとも之だけの相異はあった。併し又今までの処、相異はただこの点にしかない。両者にとって要するに虚偽の源泉は意識[#「意識」に傍点]に、そして意識は par excellence には個人の――先験的又は経験的――意識であるから、個人[#「個人」に傍点]に帰せられた。実際虚偽を犯す者は無論個人なのであり、之を犯させるものは無論個人の感情乃至意志であろう。それを吾々は無論拒みはしない。併し吾々の問題はそこにあったのではなくして、実は、この個人意識に於て、一定形態[#「一定形態」に傍点]の虚偽が組織的に如何にして成り立つかにあった。問題は再びリボーの場合と同じく、個人の感情乃至意志へ、一定の虚偽形態[#「形態」に傍点]を組織的に与えるものが何であるかにある。個人意識へ一方に於て真理という形態を組織的に与え、他方に於ては虚偽という形態を組織的に与えるもの、それはもはや個人意識自身であることは出来ない。それでは何か。
タルドは茲に社会[#「社会」に傍点]という概念を用意している。現実の論理はタルドに従えば単に個人的論理[#「個人的論理」に傍点]ではない、そうではなくして正に社会的論理[#「社会的論理」に傍点]なのである。論理的に動くもの、それは単に個人の意識――精神――ばかりではなくして、社会こそ正にこれである。何となれば、社会は現に論理的法則[#「論理的法則」に傍点]に従って――社会論理的に[#「社会論理的に」に傍点]――歴史に於て展開するのであるから。即ち社会的精神[#「社会的精神」に傍点]は模倣の法則及び発明の法則に従って運動するのであるから。否、更に根本的なことは、歴史社会的存在、事件それ自身が全く論理の過程そのものに外ならないということである。「国家は厳密に云って一つの複雑な三段論法と考えられることが出来る。」法律・国教などがこの三段論法の大前提であり、個々の人民・個々の事件・個々の状態等々がその小前提であり、そしてこの二つから結果した国家の歴史的諸運動がその帰結に外ならない*。社会自身が一つの論理である所以である。さてこのような社会的論理とは、とりも直さず個人的論理に対して組織的に虚偽の一定形態を与えるものであることを意味する。何となれば、タルドによれば社会的論理自身が初めから一つの根本的な虚偽――社会の虚偽性――に基くものと考え得られるから。蓋し社会の本質はタルドによれば模倣にある。模倣とは自己の独立を捨てて自らを他に渡すことであろう、それは自己の立脚地を忘れることであり、自己という地盤を遊離することである。地盤を遊離した存在は然るに、根柢[#「根柢」は底本では「根抵」]を欠いているという意味に於て、常に虚偽でなければならない。社会は根本的に云ってそれ自身一つの虚偽であり、真実なる自己――個人――からの堕落を意味する。であるからこの社会に於て存在する社会的論理は、理想としては無限に漸近線的に、個人的論理に近づいて行かなければならない当為を負わされている。真の論理[#「真の論理」に傍点]は個人的論理である。社会的論理は、それ自身虚偽[#「虚偽」に傍点]の論理[#「論理」に傍点]と考えられねばならない。かくて個人的論理に組織的に一定形態の虚偽を与えること自身が社会的論理という言葉の意味となって来る。社会の本質は個人的論理に社会論理的という一定形態の虚偽を原則的に与える処に、恰も成り立つのであった。タルドの思想を手懸りにすれば吾々は茲に来る。
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* La logique sociale, p. 63 参照。
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吾々が現在有っている社会概念によれば、タルドの社会概念を多くの重大な点で修正しなければならない必要を、吾々は感じる。今は他の点を顧ないとして、少くともタルドによれば、社会は初めから否定されるべき運命に於て問題として選ばれていることを注意しよう。タルドの社会概念は結局社会概念自身の否定でしかない。社会とは云わばアダムとイブとが楽園を失った瞬間に発生した処の、堕落した存在なのである。吾々は何時かこの人間社会から救済されて神の都に這入ることの出来る日を待たねばならぬことになるであろう。それ故タルドによれば、社会は常に[#「常に」に傍点]――一定の場合ではなくして如何なる場合にも――論理の虚偽形態を発生すべきものであったのである。今私はこの点を修正する。
吾々はこう考える。社会一般なるものは論理に対して虚偽形態をも真理形態をも組織的に与えるものではない。社会的であるということだけでは、論理は虚偽とも真理ともならない。ただ或る条件の下では社会は組織的に虚偽の一定形態を与え、之に反して他の或る条件の下では社会は組織的に却って真理の一定形態を与えるのである、と。
これを最も形式的に説明するならばこうである。社会の歴史的運動[#「歴史的運動」に傍点]の現実的必然性を、その地盤として夫に立脚した理論は、原則として、組織的に――個々の場合々々を云うのではない――一定の真理形態を取る。というのは社会の歴史的運動が必然的に行こうとしている処のもの――現実のもつ必然性――からその問題の端緒を始める論理は原則として真理だと云うのである。之に反してこの歴史的必然性に無関心な、従って之を地盤としない論理は常に原則的に一定の虚偽形態を有つのである。時代の意識[#「時代の意識」に傍点]を伴う理論はその限り真理であり、之を伴わないものはその限り虚偽である。処が時代は一定の法則を以て不断に推移して行くから、或る任意の過去又は未来にあるのが適切であるような真理も、現在[#「現在」に傍点]に於ては一つの虚偽であることが出来、そして又現在に於て真理と考えられたものも、もし人々が之を或る一定の未来に於てそのまま固執しようとするならば、未来のその時期に於て夫は虚偽となるであろう。真理は、歴史的運動[#「歴史的運動」に傍点]によって虚偽となる[#「なる」に傍点]ことが出来るのである――前を見よ*。
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* 観念が歴史的現実――現在――を踏み越えた場合の虚偽の形態をユートピア[#「ユートピア」に傍点]と呼び、之に反対な場合の虚偽形態を、(悪き意味に於ける)イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]と名づけることが出来る。
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時代から離れた真理の、歴史的存在と喰い違った観念の、有つこのような虚偽形態を、吾々は一般に時代錯誤[#「時代錯誤」に傍点]と呼んでいる。之によって社会の歴史的運動の必然性は忘れられ[#「忘れられ」に傍点]、又は見誤ら[#「見誤ら」に傍点]れる*。――さてこの時代錯誤こそ、論理に於ける無意識的虚偽[#「無意識的虚偽」に傍点]の代表的虚偽形態であるだろう。だが之はなぜ無意識[#「無意識」に傍点]なのか。
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* 事物の単なる流行[#「流行」に傍点]と、その事物の歴史的使命[#「歴史的使命」に傍点]とを混同するものは、今日吾々が好く見る一つの時代錯誤である。時代錯誤的人物は、歴史的使命をもつ或る現象を、単なる流行として片づけようと欲する。そのようなものこそ、今吾々が取り扱っている無意識的虚偽の適切な一例であるだろう。
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この虚偽形態はその原因を個人的論理の内に持つのではなかった。何故なら、それは社会的論理の内から、観念と社会的(歴史的)存在との関係から、出て来たテーマであったから。尤もこの虚偽形態に陥る主体は無論夫々の個人には相違ない。併し個人を陥れる原因は個人に在るのではなくして、社会の内にあったのである。或る個人は歴史的(社会的)感覚を持つが故にこの虚偽形態を犯さず、他の個人は之を持たないが故にこの虚偽形態の擒《とりこ》となる。そして後者は歴史的(社会的)感覚を持たないが故に、この虚偽形態に就いての感覚をも持ち得ない。彼にとっては自己の虚偽は少しも虚偽ではないのである。何となれば之を虚偽として意識させる動力は彼個人の内にはなくて、恰も彼が無関心である処の社会そのものの内にあるのだから。――之が無意識的虚偽である所以である。
無意識的虚偽形態の代表としての時代錯誤は、個人のもつ歴史的[#「歴史的」に傍点](社会的)感覚[#「感覚」に傍点]の欠乏に、一応帰着する。併し一体このような感覚は何によって与えられるか。人々の素質[#「素質」に傍点]にでも依るのであるか。だが少くともこの感覚は動物的な性能――本能[#「本能」に傍点]――ではないであろう。そうすれば之は一つの教育されたる素質――教養[#「教養」に傍点]――だということになるであろう。処が教養は全く一つの歴史社会的条件の所産でなければならない。そこで吾々はこう問わねばならなくなる、如何なる歴史社会的条件が歴史的感覚を完成するかと。かかる条件を充す社会形態は併し、現在に於ては[#「現在に於ては」に傍点]、一つの進歩的・変革的なる階級[#「階級」に傍点]なのである。
実際、人々は見るべきである、茲では歴史的感覚――この具体的論理能力――のための素質が比較的欠乏していることや、又その教育が不完全であるということが、階級意識[#「階級意識」に傍点]によって如何に補われているか、という一つの事実を。比較的凡庸な且つ無教育な一介の労働者は、往々にして、大学教授達よりも、又大新聞の顧問達よりも、如何に容易に真理への正常な感覚を持つことが出来るかを。――それであるから、時代錯誤の虚偽が無意識的であるのは外でもない、それが階級性を持った虚偽、階級的虚偽[#「階級的虚偽」に傍点]であるからである。時代錯誤者が真理の階級性を何等かの意味ででも否定しようと欲するのは、であるから偶然ではない。それは必ずしも彼等の無知からではない。
時代錯誤は、無意識的であるが故に、自らを正当化し得るという期待を有つことが出来る(この虚偽が組織的で執拗である所以は之である)。そこで即ち人々は論理[#「論理」に傍点]を完全に非歴史的[#「非歴史的」に傍点]なものとしようと欲する。その為にはかの形式論理学が最も適当な代表的論理であるであろう。人々は一切の事物を、ただ形式的論理にのみ還元し得るものと仮定することを欲する。そのためには論理の自律性、存在からの独立性が必要であるだろう。何故なら今は形式論理の決定的な独宰を権利づける必要があるのだから。論理乃至真理が、超越的価値[#「超越的価値」に傍点]と考えられる理由が茲にある。それ故、元来論理の無条件的独立性を否定し、論理を存在――歴史的社会的存在――に基けようとする弁証法は、ここでは排撃されざるを得ない実際上の必要があるであろう。時代錯誤が自らを合理化するためには弁証法は否定されなければならない。処が歴史的(社会的)感覚は恰も、弁証法的論理をこそ要求する
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