のである。蓋し弁証法的論理とは、歴史的範疇[#「歴史的範疇」に傍点]に就いての論理を意味せねばならない。

 無意識的虚偽の代表者は時代錯誤であり、之が無意識であり得るのはそれが階級性から来る虚偽形態であるからであり、そしてそれが無意識であるが故に夫は――特に弁証法を否定することによって――自らを保持しようと欲する。かくて人々は一旦時代錯誤を自らに許すならば、何の虚偽をも意識することなくして、虚偽を確実に真理として主張することが出来るのである。人々は時代錯誤的問題を選び、時代錯誤的方法を用い、そして時代錯誤的解決を得ることが出来るであろう。而も彼等に向ってどれ程それの虚偽を解明してやろうとも、彼等は自己の虚偽の可能性を見る機会すら見出し得ない程、それ程この虚偽は組織的であり、複雑であり、従って彼等は之を固持することかくも執拗なのである。何が彼等をかくも執拗にさせたか。彼等が支持し、又彼等を支持し、そして社会の一切の事物にまで自己の刻印を押しつけている処の、一つの階級が彼等の背景をなしているからに外ならぬ。

 意識的虚偽は、少くとも虚言者自身を欺いてはいない、処が無意識的虚偽は虚偽者自身を欺く処の虚偽である。之こそ最も悪質な、最も度し難い、執拗なる虚偽ではないだろうか。之を医すにはもはや良心[#「良心」に傍点]――学的其他の――も役立たない、人々は何に依って之を治すべきであろうか。暴露[#「暴露」に傍点]だけが残っている。蓋し暴露とは、虚偽命題の歴史的社会的必然性[#「必然性」に傍点]を演繹し、そうすることによってその命題の歴史的社会的虚偽性[#「虚偽性」に傍点]を証明する処の、一つの批判的技術である。
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科学の歴史的社会的制約
    ――科学階級性の階梯に就いて――
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 知識・認識・乃至科学の歴史的社会的制約に関する問題を、恐らく人々は、「知識社会学」(乃至「文化社会学」)によって解答出来ると思うであろう。知識のもつ価値内容は之をかの論理学乃至認識論――夫は超歴史的・超社会的と普通考えられている――に任せる外ないが、知識の所産の歴史的社会的活動関係に就いては、知識社会学から教えられねばならぬと、人々は考えるであろう*。処が知識の価値内容とその歴史的社会的活動関係とは、そのように都合好く切り離して了うことが許されないのは、遺憾ながら或は又当然ながら、事実である。この点に於てはオーギュスト・コントの歴史哲学的――コントの意味で社会学的――根本命題は、多くの形而上学者の深遠な併しありふれた評価に拘わることなく、重大な意味を持っている。蓋しコントに於ける人間の知識の三つの段階は、単に一列の歴史的推移ではなくして、正に歴史的進歩[#「進歩」に傍点]であり、単に三つの類型の序列ではなくして、正に知識の価値の歴史的清算[#「知識の価値の歴史的清算」に傍点]の過程だからである**。茲に問題となっているのは単なる歴史ではなくして歴史に於ける価値の秩序だからである。知識の歴史的社会的制約の問題を、単に或る種の知識社会学[#「知識社会学」に傍点]を以て解くことが出来ると思うことは、今ではもはや、世間見ずらしい無知の一つに数えることが出来るであろう。吾々は併し一定の根拠を示さずに漫然とそう云うのではない。
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* 「ただ精神的労作の名声[#「名声」に傍点]と通用[#「通用」に傍点]だけがみずからの社会学を持つ、或る労作の意味内容及び価値内容は社会学を持つことが出来ない」(M. Scheler, Weltanschauungslehre, Soziologie und Weltanschauungssetzung.)。
** シェーラーはその知識社会学なるものから、コントに仮託して、歴史性の原理と価値的原理とを追放する。かくて残されたものが知識の社会学[#「社会学」に傍点]である(〔M. Scheler, U:ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens〕 及び同じく Probleme einer Soziologie des Wissens を参照せよ)。
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 少くともそれが特殊史でない限り、歴史的運動を段階[#「段階」に傍点]づけるものは、政治的なるもの[#「政治的なるもの」に傍点]である*。政治的なるものこそ、所謂実践性乃至物質性の優れたる概念である。実践性と物質性とは、単なる行為[#「行為」に傍点]又は感性[#「感性」に傍点]の概念ではない、又単に実験[#「実験」に傍点]とか生産[#「生産」に傍点]とかの概念に止らない、政治的なるもの――必ずしも所謂政治にぞくするものとは限らない――こそ夫である。実際今日、歴史の代表的・性格的内容は、階級[#「階級」に傍点]――この政治的なるもの――に関してのみ有効に段階づけられ得ると考えられている。そうすれば一般に、歴史性[#「歴史性」に傍点](即ち又社会性[#「社会性」に傍点])とは、直ちに[#「直ちに」に傍点]又はやがて[#「やがて」に傍点]、階級性[#「階級性」に傍点]として初めて優越に理解されるべきものだ、ということが結果する**。歴史性必ずしも常に階級性とは限らないが、現代では、歴史性はやがて[#「やがて」に傍点]階級性となるべきであり、歴史性を言うことは階級性の萌芽を培うことであり、階級性への出発をすることなのである。歴史性の概念から階級性の概念へのこの推移[#「歴史性の概念から階級性の概念へのこの推移」に傍点]に関する理解は、今日決定的と思われる。よって以下歴史性と階級性とを同じ意味に用いることが出来る。この点は大切である。
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* 例えば文学史という特殊史には、文学的時代区別(〔e'poques litte'raires〕)が必要であると説かれるであろう。之に反して一般史には政治的時代区別が与えられている。
** 歴史から独立な社会や、社会から独立な歴史はない。歴史性は常に同時に社会性である(以下歴史的とは社会的に同じ)。
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 さて科学の歴史性[#「科学の歴史性」に傍点]――階級性[#「階級性」に傍点]――は決して単純ではない。様々の階梯を之に区別する必要が現実上あるであろう。何故なら今日階級性の概念が様々に異った意味で用いられているのが事実であり、そしてこの様々に異った意味を区別しておかないために、色々な困難や不充分さに行き当るのを吾々は経験しているから。
 科学――学問――が一つの歴史的――社会的――所産であることは云うまでもない。科学のもつ理論の形式は兎に角として、少くともその内容は、であるから歴史的に制約されている。たとい科学の所謂アプリオリなるものが絶対不変であろうとも、之に基く理論内容は、歴史的に変化[#「変化」に傍点]することを免れない。理論Aの内容α1[#「1」は下付き小文字]が、内容α2[#「2」は下付き小文字]に変化することは事実の上で必然であるだろう。人々はこの事実を無条件に承認すべきである。さて併し之が実は、科学階級性[#「階級性」に傍点]の第一[#「第一」に傍点]階梯を意味するものに外ならぬ。というのは科学のこのような当然な基本的な歴史性[#「歴史性」に傍点]が――前に述べたことから――やがて[#「やがて」に傍点]階級性の萌芽である筈であったから。
 次に凡ゆる科学は、一定の問題提出の仕方によって動機づけられており、科学の内容とは取りも直さず、この問題の解決と展開であることを注意しよう。処で、かかる問題乃至その提出法は無論歴史的に――伝承的にせよ発見的にせよ――制約されている*。それ故、たとい人々が科学の理論内容に対して有つ関心が直接に変化を蒙らない時でも、その理論の動機であった問題自身がもし従来の人間的関心をつなぐことが出来なくなれば、やがて[#「やがて」に傍点]その科学は消滅[#「消滅」に傍点]せざるを得ないであろう。そして之に反して、何か新しい問題が人間的関心の中心となることによって、新しい科学が発生するであろう。今度はもはや、科学Aがその内容αを変化するのではなくして、科学Aが、科学Bによって代位[#「代位」に傍点]されるのである。一切の科学に就いては人々は、かかる消滅発生の歴史的代位の関係を、不可能であると主張することを許されない。曾ては一種の神秘的な数学が存在した、現今では完全に合理的な数学しか数学ではあり得ない。そういう様に、例えば現今の数学が、それとは全く別な系統を有つ処の、併し必然的にこの数学の位置に代わるべき、或る未知の科学によって代位され得ないという主張は成り立たない。現今の数学が虚偽となったのではないにしても、存在の解明により役立つものがもし現われ得たなら、所謂数学は歴史の上から跡を絶つこともあるであろう。この公算は至極小さいが、併し原理上零ではない。そして之は数学の超経験的な普遍妥当性と少しも衝突しない空想である。今もし数学の代りに経験的諸科学を例に引くならばこのような可能性の公算は相当大きくなるであろう。吾々は強いて最も不利な数学の場合を取って見たまでである。――之は科学階級性の第二[#「第二」に傍点]階梯である。
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* この点を私は曾て明らかにしておいた。「問題に関する理論」を見よ。
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 一切の科学は、かくて以上二つの階梯の階級性を有つ。そして科学の階級性という言葉は往々この二つの意味に於ても用いられている。けれどもこの二つは、後に見るであろう階級性に較べて見れば判る通り、階級性の萌芽ではあるが、単に名目上の階級性でしかない。茲には殆んど問題は無いであろう。
 向に科学の理論内容と云ったが、科学の実質的な内容は、その理論を保持する論理[#「論理」に傍点]――真理と虚偽との価値関係――にある筈である。之に較べては、前の二つの場合の理論内容は、理論の単なる――真偽関係から引き離された――材料でしかなかった。問題はそこで、もはや理論[#「理論」に傍点]ではなくして、論理[#「論理」に傍点]までが、歴史的に階級的に制約され得るか否か、である。単に科学ではなくして科学に於ける論理内容が階級性を有ち得るか否か、である。歴史的制約が論理的制約[#「歴史的制約が論理的制約」に傍点]――真偽関係――と交渉干渉し得るか否か、である。理論Aが之に代るべき理論A′[#「A′」は縦中横](必ずしも前に見たBではない)によって単に歴史的に代位されるばかりではなく、又単に拡張・修正・補遺されるばかりでもなく、真理[#「真理」に傍点]A′[#「A′」は縦中横]に対する虚偽[#「虚偽」に傍点]Aとして、論理的に否定・止揚されることが結果し得るか否か、が今の問題である。もはや茲では、一つの歴史的所産・文化財としての科学が、歴史的に制約されているというだけではない、それならば知識社会学にでも一任してよいかも知れない――初めを見よ。そうではなくして、それの理論[#「理論」に傍点]内容が歴史的・階級的に制約されるかどうか、が問題なのである。今問題になっているものが、科学階級性の第三[#「第三」に傍点]階梯である。
 もし科学を教科書風に鵜呑みにしない人々でさえあれば、歴史学・経済学・政治学・法律学・哲学・等々の歴史的(即ち哲学的)諸科学が、何等かの点に於てこの階梯の階級性をもつことをば、見逃すことが出来ないであろう。ここでは真理と虚偽との標準が階級性によって与えられることが出来るように見える。無論一定の階級に属するというだけで直ちにそれが真理又は虚偽だということになるのではない、ただ、階級のもつ夫々の歴史的制約が夫々科学の論理的制約へ反映することによって、真理又は虚偽を結果するのである
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