。之は吾々が日常眼の前で経験している事実なのである。――併し少くとも自然科学[#「自然科学」に傍点]に就いては必ずしもそうではないように見える。茲に吾々の問題が横たわる。
自然科学の代表者としては、理論物理学を選ぶことが常道であり又当然である*。そしてそれは今の場合必要な寛大を意味することとなろう。というのは多くの人々は物理学が階級性――第三の――を持つことを想像し得ないだろうから。物理学が第一・第二以外の階級性を有つというような主張は、笑うべき無知か悪むべき誇張として、待遇されるのが常であるように見える。実際ここで階級性を検出することは殆んど絶対的に不可能と見えるまでに困難のように見える。吾々の穿鑿は併しながら原理的であった、それは困難か容易かの問題ではなくて、可能か不可能かの問題であった。現在直ちに又は或る将来に必ず、物理学の階級性が見出されるであろうか否かではない。その階級性が原理的に、絶対的に、不可能か又はそうでないか、から今は問うてかからねばならぬ。こう問われる時人々は、之が絶対的に不可能であると答えるに足る材料を果して有っているであろうか。物理学Aが之に代位すべき理論A′[#「A′」は縦中横]によって(AがBによって、又はα1[#「1」は下付き小文字]がα2[#「2」は下付き小文字]によってではない)、虚偽として否定・止揚されることが、歴史の何等の時期に於ても絶対に在り得ないということを、現在――従って云わば先天的[#「先天的」に傍点]に――どうして証明するか。
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* 私は拙著『科学方法論』二一二頁〔本全集第一巻所収〕以下に於て、何故物理学が自然科学の代表者でなければならないかを見た。
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吾々は今、好事家・空想家・或いは杞憂家ですらあるように見えるかも知れない。併しこの杞憂はそれ程無根拠ではない。人々は物理学を哲学的に基礎づけようと欲する。その場合恐らく或る人々は、物理学の論理内容が超歴史的であることを、その研究の結果の一つとして付け加えるかも知れない。併し元来物理学を哲学的に基礎づけることを許すからには、何といっても、物理学を哲学という地盤の上で初めて安定し得ると考えることに外ならない。一応承認されている物理学の独立は、そこでは実は絶対的な[#「絶対的な」に傍点]独立ではなかったのである。重心は今やであるから、哲学の双肩にかかって来るわけである。処がおよそ哲学自身は超歴史的であることが出来たか。凡ての哲学は、世界観を産まないまでも世界観からのみ発生する、そして世界観のもち得る論理内容が歴史的に制約されていることは人々の知る通りである。故に物理学を終局に於て[#「終局に於て」に傍点]哲学的基礎の上で安定しようとすることは、物理学がたとい間接にせよ絶対に階級性――第三の――を持ち得ないという保証を破棄することを意味する。実際、物理学の根本的諸概念はすでに一定の解釈[#「解釈」に傍点]に立脚する。実験の結果があってもただ一定の解釈の下にのみ一定の意味を受取る。そして解釈は常に歴史的に制約されているのが事実である。従ってそれが他の解釈によって否定・止揚され得ないということはない。一つの概念に対してもし解釈が異れば、それはもはや同一の物理学的概念ではなく、従ってかかる物理学的諸概念によって解明される筈の物理学は、論理的に矛盾する二つの異った解答を、同一問題に就いて提出し得ることとなるであろう。例えば運動の相対性の公準は、必ずしも日常の経験から得た法則ではない、何となれば日常の経験によれば、凡ての運動が必ずしも相対的には見え[#「見え」に傍点]ないから。この公準は却って経験に先立つという意味に於てアプリオリな、従ってその限り形而上的な、解釈に基く*(相対性理論の哲学的興味は茲に横たわる)。もしアリストテレス的物理学に依るならば、大地は天体運動の絶対的[#「絶対的」に傍点]な中心でなければならなかった**。少くとも天体の運動は絶対運動として解釈されたのであった。運動概念に就いてのかかる相対主義的及び絶対主義的解釈は、異った二つの物理学――宇宙論――を論理的に結果するのであり、そして事実後者は前者によって否定・止揚されたであろう。之はニュートンに対する場合とは異って単なる拡張・修正・補遺ではない。アリストテレス的物理学と今日の物理学とは、同一科学の原始状態と成熟状態とであるかのように見えるに拘らず、二つの科学はそのイデー――哲学的解釈――を異にする。一つの物理学が、歴史上に発生した経験を通過することによって、論理的に――単に歴史的にばかりではなく――他の物理学を否定・止揚したのであった。もし之と似た論理的代位をより明らかに意識したいならば、ルネサンス期の自然哲学[#「哲学」に傍点]から所謂物理学[#「物理学」に傍点]が如何にして批判的に派生して来たかを、人々は見るべきである。歴史が茲で告げているものは、もはや、理論の単なる隆頽[#「隆頽」に傍点]ではない、そうではなくして後者による前者の論理的批判[#「批判」に傍点]であった。こう考えて来れば吾々の杞憂はもはや杞憂ではない。――今もし物理学の代りに、より不精密と考えられる諸自然科学を材料にするならば、自然科学の階級性――第三の――は一層容易に検出出来るであろう。ダーウィニズムはその絶好の一例である。
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* カントはすでに、その自然の形而上学に於て、経験的事実に先立って、アプリオリに、一切の運動の相対性を主張した。遠心力を知覚出来る円運動の如きも、彼によれば絶対運動ではない、ただ真の運動[#「真の運動」に傍点](wahre Bewegung)だというまでである。
** アリストテレス De Caelo を見よ。
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吾々の主張が茲まで来ると、人々の最初の想像に反して、自然科学の階級性は至極自明であるかのようである。科学的理論の論理関係が、何等か歴史的制約を蒙ることが階級性――第三の――だとすれば、自然科学の階級性は至極当然な事情でなければならないようである。そして科学の理論内容の実質はその論理に至って窮極すると云ったが、この論理が歴史的に制約されるからには、もはや科学のこれ以上の歴史的社会的制約はあり得そうにも思われないようである。自然科学は従って完全に[#「完全に」に傍点]階級性を有たねばならないと考えられそうである。――然るに夫にも拘らず人々は、初め見出すのに困難[#「困難」に傍点]だと云った自然科学――特に物理学――の階級性をば、依然として、容易なものとしては見出さないに違いない。之は不可能ではないにしても少くとも見出すのに至極困難であることには、依然として変りがない。それで人々は、吾々の主張を一応承認しなければならないに拘らずなお且つ之を無条件に信用することが出来ないに相違ない。茲にはまだ何かがある。一体かの困難[#「困難」に傍点]は何処から起こり、又何を意味するか。
注意すべきは自然科学のもつ特有な二重性[#「特有な二重性」に傍点]である。
自然科学は一方に於て一つの歴史社会的存在である、その限り之は歴史[#「歴史」に傍点]にぞくする。処が他方に於て、自然科学は正に自然科学であって、歴史科学乃至社会科学ではなく、歴史的社会の代りに自然を解明する任務をもつものである。かかる解明は云うまでもなく、絶対に自然そのものに忠実であることを要求される。それ故自然科学は他方に於て又、自然[#「自然」に傍点]にぞくさねばならない。然るに自然と歴史とは対立する。自然科学は従ってこの対立をそれに特有な二重性[#「二重性」に傍点]として有つのである。歴史的諸科学にとっても、自然は或る意味に於て歴史社会に対立はする。併しそこでは歴史社会の内に於ける、自然と歴史との対立――第二次的対立――なのであって、自然科学の場合のように第一次的対立があるのではない。之が自然科学に特有[#「特有」に傍点]な二重性である所以である。この二重性と相似な二重性を数学に於ても見出すことが出来る。蓋し超歴史的対象を持つ数学がそれ自身又歴史的存在であるのだから。併しこの場合、数学の対象界は一応、現実的ではなくして可能的にすぎないから、之と歴史的現実との対立は、現実と現実との対立ではない。両者の現実的な対立はそれ故ただ間接的[#「間接的」に傍点]でしかない(之は数学が自然科学に較べて、歴史的・階級的制約を蒙ることが原理的に低度であることの、現われである。数学的真理はそれ故、かの第三階梯の階級性を有たないと考えられることには意味がある*)。之に反して自然科学に於けるかの対立・二重性は、恰も現実としての歴史と、同じく現実としての自然との間の、従って直接な[#「直接な」に傍点]交渉であった。歴史と自然とは元来独立した二つの現実ではなくして、現実としては唯一のものに結合しているから、両者は現実に於ける相関関係に於てしか理解され得ない。処が、このように不離の連合関係にある歴史と自然とが、自然科学にとっては、二つの相反する極として対立するのである。自然科学は特に、このような二重性を有つ。
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* 小倉金之助博士は論文「階級社会の算術」に於て云っている、「私の意味する処は、それが算術である限り、純然たる数学的の論理や法則それ自身が、社会階級によって異る、というのではない」、と。吾々の第三階梯の階級性は恰もかかる「論理や法則それ自身」に関わるものであった。数学がこの階級性を持ち得ないと考えられる所以である。併しながら数学の論理や法則は数学体系の一部分[#「体系の一部分」に傍点]をなすのであり、そしてその数学の基礎的部分は哲学的世界観――例えば無限概念[#「無限概念」に傍点]――へ連続する(直観主義と公理主義との対立を思い起こせ)。数学の論理や法則それ自身でも、哲学的[#「哲学的」に傍点](従って又歴史的[#「従って又歴史的」に傍点])地盤から絶対的に[#「絶対的に」に傍点]独立なのではない。数学の論理や法則それ自身[#「それ自身」に傍点]にはたしかに第三階梯の階級性はない。だが、それが歴史的所産としての数学の床の中に横たわる限り、間接[#「間接」に傍点]に、この階級性を持つことが出来る。第三の階級性を数学は per se には持たないが、per accidens には有つ。mengentheoretische Antinomien に於て見出されるであろうエレア主義とヘラクレイトス主義との対立に人々は思い及ぼすが好い。per accidens に於ける第三階梯の階級性を、第三階梯の階級性と呼ぶことが便利である。
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自然科学に特有な二重性の故に、自然科学に現われる諸概念も亦この二重性を反映する。というのは吾々は、必ずしも自然科学的知識によって教えられない前に、又は之とは区別された、自然的諸概念を有つ。と共に又自然科学にとって媒介されて初めて知り得る限りの自然的諸概念をも無論有つ。例えば運動の概念は、存在と無との、一点での存在と他点での存在との、対立的矛盾者の総合として、概念される。この運動概念は、必ずしも自然科学によって教えられたのでもなく、又夫によって訂正されるべき筋合のものでもない。却って自然科学的認識に対して、夫は何等かの指示をさえ与え得るかも知れない位置にあるのであろう。運動概念は自然科学的知識から区別されて、歴史上にも之に先立って、弁証法的なるものとして把握される。実際之は夙にエレアのゼノンの天才によって見出された処のものである。之に反して現代物理学にとっては運動の第一の物理学的規定は、必ずしもその弁証性ではない。ここでは運動は空間座標と時間軸との比一般として、ただ計量的にのみ定式化され(物理学的にはただ計量し得るものだけが存在する)、かかる諸運動の分類・相互関係・資格の相違・等々の観点に於てのみ第一義的に規定さ
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