れる。物理学が教えるのは、運動が弁証法的であるか否かではなくして、それよりも第一に、例えば絶対運動であるように見えるものが如何にして相対運動として把握され得るか、という種類のことである。かくして吾々は運動概念を二重に有つであろう。一般に自然的諸概念はこのようにして二重性を有つ。自然科学的知識から区別された自然概念は、それが特別な――自然[#「自然」に傍点]科学という――条件を通過しない意味に於て、直接に歴史的[#「歴史的」に傍点]概念であるということが出来、之に反して、自然科学が与える限りの自然概念は、特に歴史の対立者を内容とする自然科学を通過するから、却って自然的[#「自然的」に傍点]と考えられる。処が又他方、後者は自然科学という一定の歴史的存在を媒介するからそれだけ歴史的[#「歴史的」に傍点]でなければならず、これに反して前者は、自然を直接に――自然科学を媒介せずして――把握するから却って自然的[#「自然的」に傍点]でなければならない。さてこの二重性が、その様々な対立にも拘らず、同一な概念――例えば運動――に於て統一を有つのであった。
 それであるから、自然科学に向って自然哲学的[#「哲学的」に傍点]要求を有つならば(そして今述べた両者の統一故にこの要素は正当である)、即ち自然科学の内容を直接に――かの認識論と呼ばれる稀釈剤を用いずに――一つの世界観へまで連絡しようとすれば、自然が例えば弁証法的存在である所以が指摘されるのは、偶然でもなく無用でもないだろう。――かくて自然科学それ自身が、その内に二つの対立者を統一しているものなのである。自然自身が弁証法的であるか否かの問題とは独立に、自然科学それ自身が特有に[#「特有に」に傍点]――歴史的科学とは異って――弁証法的なのである。
 重ねて云おう。自然は歴史の否定――対立者――である。そして歴史は又自然の否定である。自然科学は恰も相互に否定する二つの対立者を統一している。之が自然科学に特有な二重性であった。――さてこの二重性の故に、自然科学の階級性(第三の)を検出[#「検出」に傍点]することが困難[#「困難」に傍点]となり、之を信用[#「信用」に傍点]することも亦困難[#「困難」に傍点]となって来るのである。何となれば、茲には二重性のために、表面の裏には常に裏面があったのだから。
 併し、この二重性から出て来る結果をもっと立ち入って分析する必要がある。

 自然は第一に主観からの脱却を要求とする概念であるだろう。事物が何かの意味で主観を脱却する程度に応じて事物は自然的となると考えられる。そこで自然科学にとっての自然は(自然科学の代表者としては物理学を考えるべきであった)、自由行為者としての人間をば、凡ゆる意味に於てその対象界から除外することを、其理想とする。人間は自然科学的世界に於てはたとい観察者であっても自由行為者としては登場することを許されない。それ故自然科学はそれ自身生活の一部にぞくするにも拘らず、他の諸科学に較べて、生活[#「生活」に傍点]から縁遠く、従って生活を規定している処の歴史的社会的制約によって、至極間接的[#「間接的」に傍点]にしか条件づけられることが出来ない。――茲に自然科学に特有なかの二重性が働いているのを見る。さてこの制約が間接であるから、制約者の有っている一定形態[#「一定形態」に傍点]の制約は、もはやその儘の姿では、或いは之と一定関数関係にある姿を以てしてさえも、被制約者に伝えられないことは、そうありそうなことである。この場合の歴史的社会的制約は、ただ変装[#「変装」に傍点]してしか現われない。尤も制約が今、直接だとか間接だとか云うのは、程度の問題であり、それ故要するに程度の差に過ぎないと云われるかも知れない。両者の間の量的連続に於て、一定の限界を引いて直接と間接とを左右に引き分けることは出来ないかも知れない。併し、現実的なるものの最も著しい特色は、量が連続的に推移するに際して、やがて質の対立を結果するという点に在る。もはやであるからこの時、直接と間接とは単なる程度の量的差異ではなくして、質の上の相違で事実上あるのである。さてこの消息が、自然科学に於て次の事情として現われる。
 歴史は自然科学に於ては否定される。自然科学――物理学を考えよ――は時間をば、その固有の時間性即ち歴史性、に於てではなく、空間化されたる一つの次元として使用する。成程そこでは時間軸は抽象し去られはしないが、時間性の原理――歴史的現実性の原理――は抽象し去られている。自然科学の世界像はそれ故元来、時間性――歴史性――の規定からは独立しているものである。自然科学が構成されるのは、無論のこと夫々の時代[#「時代」に傍点]に於ける人間によるのではあるが、歴史のもつそのような――時代という――現段階[#「現段階」に傍点]の性格は、もはや論理構成の原理内に組織的に織り込まれてはいない。自然科学にとっての現実とは、歴史的現段階のもつ現実性ではなく、恰もそのような歴史性の否定であった処の通時間的な自然[#「自然」に傍点]のもつ現実性に外ならない。故に自然科学的理論は、歴史的現段階に固有な現実性に立脚しないことをその特色とする。之に反して歴史的科学は正に、歴史的現段階に固有な客観的事情からこそ、その理論的分析の端緒[#「端緒」に傍点]――原理[#「原理」に傍点]――を取り出さなければならない。例えば現代[#「現代」に傍点]の経済学は、それが現代[#「現代」に傍点]の経済現象の分析であるが故に、正に商品の分析から出発しなければならない[#「出発しなければならない」に傍点]ように。かくて、科学のもつ歴史的制約――階級性――が直接か間接かの相違は、夫が歴史的現段階に固有な現実に立脚するかしないかという、質の上の原理的な相違を事実上意味するのであった。単なる量の上の対比では之はもはやない。
 それ故明らかとなることは、自然科学が歴史社会的に制約されている――第三の階級性によって――にしても、それが必ずしも歴史的現段階性[#「歴史的現段階性」に傍点]によって制約されていることを意味するのではない、ということである。従って、丁度それだけの意味に於て(但しそれ以上の意味でではないが)、自然科学にとっての現実は、超時代的[#「超時代的」に傍点]であり、永久不変[#「永久不変」に傍点]である、ということも出来る。そこでは歴史上、従来の理論内容を優越して特権を主張する根拠となり得るような、従来無かった新しい地盤[#「新しい地盤」に傍点]は、原理的には――偶然的にはどうか知らない――無い。先人の業績を、それが過去のものであるが故に、夫を批判し得るような、そのような資格を有った新しい立脚地は原理的には無いのである。新しい時代の性格に立脚することによって、自然科学を新しく建設し直すべき動機が、常に必ず働かねばならぬということは、絶対にない。かくして伝習された従来の自然科学を、改めて批判・検討し、依って之を否定・止揚し得るような場合は、ただ極めて偶然な[#「偶然な」に傍点]事情に基くのであり、従って至極稀な[#「稀な」に傍点]機会をしか持たないことは当然である。既成の自然科学の現在に於ける否定・止揚が困難[#「困難」に傍点]なものと思われる所以が茲にある。
 自然科学のこの超歴史性は、その方法機関に現われる。歴史的科学の唯一の科学的機関である分析的方法[#「分析的方法」に傍点]は歴史的事物に関する分析であるばかりでなく、同時にそれ自身が歴史的段階と相関的に[#「歴史的段階と相関的に」に傍点]、歴史上発展する性質をもつ。之に反して自然科学の機関である実験[#「実験」に傍点]と解析的操作[#「解析的操作」に傍点]は、人間的行為の――従って歴史の――除外を齎す最も確実な手続きであるであろう。無論之も歴史的に進歩するのではあるが、原理的に言って、それが歴史的現段階[#「現段階」に傍点]と相関的であるのでは決してない。実際、実験の一定の方法と結果とは、ただ数代に渡る知識の蓄積によってのみ組織立てられ、数学的操作は数千年の片々たる業績の積堆の外ではない。吾々はただ之を継承[#「継承」に傍点]し発展[#「発展」に傍点]させる外に余地を持たぬようである。新しい時代の新しい現実に立脚して之を批判し検討することは、過去の業績に相当するだけのものを今日再蓄積・再積堆することを意味するから、之は一朝にしては殆んど絶対に不可能であると考えられるであろう。自然科学の変革[#「変革」に傍点]が愈々困難[#「困難」に傍点]な所以である。
 であるから自然科学に於ては、理論Aに対して批判的位置を占めるべき新しき理論A′[#「A′」は縦中横]が、予めAの拡張・修正・補遺としてのみ、みずからの態度を決めてかかり勝ちなのは、至極尤もであるであろう。従って茲に働くものは、その根本傾向に於て、元来、前者の否定や止揚であることを欲しないのである。前者は後者を以て、自己の拡大・訂正・追加に過ぎないものと見做すことが、事実上常に出来るからである。もし後者が前者を否定したのであったならば、前者は後者を以て、正に自己の否定と反対としてこそ意識する筈である。かくて実際、既成の自然科学を変革することが益々困難と考えられる所以がある。
 さて之まで指摘して来た困難[#「困難」に傍点]の故に、自然科学の歴史的社会的制約――第三階梯の階級性――は検出し難く見えたのであった、困難[#「困難」に傍点]は自然科学に特有なかの弁証法的二重性に於ける、歴史否定[#「歴史否定」に傍点]の契機から由来したのであった。処が、他方吾々はすでに、自然科学が当然[#「当然」に傍点]この階級性を有ち得ることを見ておいた。かかる容易さ[#「容易さ」に傍点]は自然科学が一つの歴史的存在である限りの歴史肯定[#「歴史肯定」に傍点]の契機から由来したものであった。二重性のこの二つの契機によって、自然科学のこの階級性は、一方に於て至極困難[#「困難」に傍点]なものとして、他方に於ては之に反して至極自明[#「自明」に傍点]なものとして、意識される理由があったのである。
 今やこの困難と容易さとの意識の矛盾の真相を、もっと立ち入って突き止める段に来る。併しその方向はすでに伏線として与えられている。すでに吾々は、自然科学の歴史的制約が常に変装[#「変装」に傍点]されていねばならぬことを見た。歴史的制約がその一定形態[#「一定形態」に傍点]を、そのままの姿又は之と一定形態の関数関係に於てある姿を以て、自然科学へ伝えることは出来ない、と云った。この意味で、この制約は自然科学に於て常に間接[#「間接」に傍点]でしかあり得なかった。そしてこの間接さが決して、直接さに対する単なる程度の差ではなくして、歴史的現段階のもつ現実に立脚しない[#「ない」に傍点]という、積極的な内容をもつものであることも明らかにしておいた。そこで今や次のことが結果する。歴史が科学へ一定の形態的制約[#「形態的制約」に傍点]を与えるのは、その科学が歴史的現段階[#「歴史的現段階」に傍点]のもつ現実に立脚するということを意味する、と。裏を言えば、科学が歴史的現実に立脚しないということは、それが歴史によって形態的には[#「形態的には」に傍点]制約され得ないということと、一つである、と。
 この結果を自然科学の理論内容の論理――真偽関係――に適用すれば、自然科学的理論は歴史的現段階の現実に立脚しなかったから、それであるからその論理は、歴史によって形態的には[#「形態的には」に傍点]制約され得ない、こととなる。なる程自然科学の論理内容は、その個々の場合々々[#「個々の場合々々」に傍点]に就いては、断片的[#「断片的」に傍点]には、偶然的[#「偶然的」に傍点](per accidens)には歴史的社会的制約を蒙る可能性及び必然性があるだろう。それを実は吾々は、第三[#「第三」に傍点]階梯の階級性として指摘して来たのであった。併し自然科学はそれにも拘らず、
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