一定形態を以て形態的[#「形態的」に傍点]には、一定の総体[#「一定の総体」に傍点]として統一あるものの性質としては、その意味で原理的[#「原理的」に傍点](per se)には、歴史的社会的制約を蒙ることが出来ない。自然科学の云わば単なる論理[#「単なる論理」に傍点]内容は無組織的にせよ階級的に制約されるであろう。併しその論理形態[#「論理形態」に傍点]は――真理形態と虚偽形態との関係又は真理と虚偽との一定形態の関係は――もはや歴史的社会的に制約されてはいないのである。前者に於ては内容のある部分[#「部分」に傍点]は階級的であり他の部分は階級的でない、という区別が常に与え得られるであろう。後者に於ては之に反して常に、階級性が内容全体[#「全体」に傍点]を代表することが出来る。――さて単なる論理内容ばかりではなく、更に論理形態までをも歴史が制約する場合の階級性は、之を第三階梯の夫から区別する必要がある。何となれば自然科学は、第三階梯の階級性を持つにも拘らず、一定の論理形態としては階級性を有たないから。之は第四[#「第四」に傍点]階梯の階級性である。自然科学の階級性は第三階梯に止り、第四階梯に及ばない。二つの階級性の区別が茲で是非とも必要であることは、とりも直さず自然科学のかの特有な二重性から由来する。
歴史的諸科学にあっては、階級の歴史的・政治的・状勢は、その論理内容へ、一定の真偽形態として、形態的に反映[#「形態的に反映」に傍点]し得る。そこでは歴史的存在の構造と論理の構造とが、原理的に交渉することが出来る。人々は、例えば批判[#「批判」に傍点]の概念を見るが好い。批判は一方に於て危機としての歴史的構造であり、同時に夫は、之を反映して、論理の真偽関係の代位を云い表わすであろう*。処が自然科学に於てはそうではない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 私はこの点を、「論理の政治的性格」の題の下に分析した。
[#ここで字下げ終わり]
さて、自然科学の階級性の困難は、茲に初めてその真相を示すことが出来る。一般に階級性の概念の下に、人々は最も代表的なものとして、第四階梯の夫を頭に持つことが当然であるだろう。そしてもし之のみを頭に持つならば自然科学の階級性は当然信じ難いものと意識されねばならぬ。そこでこの意識に促されて自然科学のもつ第三[#「第三」に傍点]の階級性に臨むならば、その至極微小な公算・可能性が、何か特に重大な原理上の障碍であるかのように思われるのも尤もである。かくて第三階梯の階級性を検出[#「検出」に傍点]することの困難が、やがて之の存在を信じる[#「信じる」に傍点]ことの困難と混同されるのも強ち不自然ではなかったのである。自然科学の階級性に就いての困難の意識は、要するに茲に発生したものである。今もしそれ故、特に第四階梯から区別される限りの第三階梯の階級性を明らかに意識してかかるならば、自然科学の階級性は自明の事情として意識される筈である。困難と自明との意識の矛盾はこのような解消を結果する。
要約すればこうなる。第一・第二の階級性は、理論の単なる歴史的発生[#「単なる歴史的発生」に傍点]に関する。それは理論の真理価値の内容に関し、従って真理内容と無関係ではないが、その内容自身がそれの価値規定からは遊離して考えられている、之は名目上[#「名目上」に傍点]の階級性に過ぎない。之に反して第三・(第三′[#「三′」は縦中横])・第四の階級性は理論の単に歴史的のみならず、又論理的な保持と廃棄[#「論理的な保持と廃棄」に傍点]とに関わる。之こそ実質上[#「実質上」に傍点]の階級性である。併しその内でも第四のものは真理価値の原理的・必然的なる内容形態[#「内容形態」に傍点]に関わる、之に反して第三のものはその単なる[#「単なる」に傍点]・個々の・偶然な・内容[#「内容」に傍点]に関わる。第四のものは一般に per se なる階級性であり、之こそ優越なる意味に於ける階級性である。之に反して第三のものは一般に per accidens なる階級性に外ならない(そして第三′[#「三′」は縦中横]のものは、第三のものの更に per accidens なる階級性なのである)。――自然科学は第四の階級性を欠く、それ故、一般に階級性の性質[#「性質」に傍点]を明らかにするためには、自然科学という材料は適当ではない。併し科学一般に於ける階級性の存在[#「存在」に傍点]を指摘するためには、自然科学の階級性を見ることが必要であり適切である。そしてこの同じ言葉を吾々は恐らく数学に就いても繰り返して好いであろう。
終りに興味あることは、科学階級性の分析は、科学分類の一つの原理を提供し得るだろう、という点である。
[#改段]
[#ここから1字下げ]
[#ここから大見出し]
科学の大衆性
――科学階級性の一つの実質に関する分析――
[#ここで大見出し終わり]
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]一[#「一」は中見出し]
大衆性[#「大衆性」に傍点]という言葉は政治[#「政治」に傍点]にぞくする言葉である、如何にして大衆を獲得するか、如何にして大衆を指導するか、等々という政治的な関心の下で初めて、大衆性という概念は考察の日程に上る理由を有つ、とそう人々は考える。確かにそうである。之に反して、科学[#「科学」に傍点]にぞくするものは就中真理という言葉である、それによって大衆を獲得・指導し得ようが得まいが、そのようなことと関係なく、科学はひたすらに真理を追求すべきである、とそう人々は又考えるであろう。確かにその通りである。だがそれにも拘らず吾々は、恰も選りに選んで、科学の大衆性[#「科学の大衆性」に傍点]を問題としようとする。何故なら、第一に、この問題は、提出され得ない問題でもなく解き得ない問題でもないからである。何故政治が科学的であり得ないか、又何故科学が政治的であってはならないのか*。併しこの問題は、決して単に可能な問題であるというに止まらず、実は之こそ吾々にとって、必然的な問題なのである。何故か。この問題を多少とも解決するならば、恐らく科学[#「科学」に傍点]そのものの概念が或る一つの根本的な批判・変革を受けざるを得ないであろう、科学の概念へのこの批判・この変革は併し現在の科学の存在条件から云って絶対に必要であり、そして現在に於ける程この必然性が逼迫したことは恐らく未だ曾て無かったであろう、からである。歴史の現段階に於て、歴史の運動の動力を担い、そしてそれを担っていることを自覚し得るものこそ、大衆ではないか。このような大衆という存在が――従ってその概念が――併し正に、現代の産物であることは忘れられてはならない。古来様々な大衆はあったであろう、だが吾々にとって必然的な問題となり得るような大衆は、現代に至って初めて現われた、と云うのである。之は一つの眼前の事実である。かかる事実が何故生じたか、それに答え得るものは、歴史的唯物論の外にはありそうにも思えない。吾々は説明を之に一任しよう。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 政治がどのようにして科学的[#「科学的」に傍点]であり得るかは、例えば K. Mannheim, Ideologie und Utopie に明らかである。又科学が政治的[#「政治的」に傍点]で在り得る理由に就いては、「論理の政治的性格」を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
科学の大衆性という問題は、大衆が現代[#「現代」に傍点]に於て持つ歴史的使命を条件とする時、初めて必然的な問題となる。そうでないならば、この問題は、哲学の空想的な一例題、としての価値しか有たなかったかも知れない。
人々は大衆[#「大衆」に傍点]乃至大衆性[#「大衆性」に傍点]――文芸其の他の――を口にすることを好む。併しこの概念自身が可なり曖昧であるようである。そして多くの場合そうあるように、曖昧な概念が一つの合言葉として通用している内、夫は至極安価な戯画的な使い道を見出す。曾ては文化[#「文化」に傍点]の概念に就いて、文化生活・文化住宅の類がそうであった。同様にして今や、大衆文芸・大衆作家の類を産むに至ったのを吾々は見る。大衆とは何等か、甘やかされた俗衆か、思い上った愚衆ででもあるかのように見える。恐らく人々はかかる大衆に対しては、多少とも調子を下げて応対しなければならないようである。
処がそれならば何故、このように調子を下げて応対せられるにしか値しない大衆が、現にそれ程問題[#「問題」に傍点]とならねばならないのか。もし大衆が、無価値なものでしかないならば、それを問題とするに値しないだろうからして、問題となるからには之は積極的な価値を有つ筈であろう。人々のかかる大衆の概念はそれ故実は、大衆を語る処の、自らを大衆から区別する処の、非大衆[#「非大衆」に傍点]――反大衆――の側に於ける大衆概念なのであり、そして而もそこには直ちにこの概念の一つの根本的な矛盾が暴露されているのである。大衆に対するこの非大衆は、その意識の伝統の必然性によってはかの大衆を低く評価しながら、外部的な圧迫に強制されては、之を高く評価せねばならぬ喜ばしからぬ義務を意識しているからである。所詮この大衆概念は、大衆が自ら[#「自ら」に傍点]を意識するための概念ではなくして、却って非大衆が自らを夫から区別して意識しようがための概念であるだろう。之は非大衆的[#「非大衆的」に傍点]な大衆概念に過ぎない。大衆の大衆的[#「大衆的」に傍点]概念――大衆的理解――は之に反して、必然的な問題となるに価するだけの積極的な価値の所有者でなければならない。そこでは大衆とは、単にその或る一面に於てのみではなくして凡ゆる点に於て優越な[#「凡ゆる点に於て優越な」に傍点]一つの勢力、を云い表わす言葉である。否そういう勢力を云い表わすためにこそ、この言葉が現在選ばれているのである。
大衆は併し他方、非大衆(反大衆)に対立[#「対立」に傍点]する処の一つの集団[#「集団」に傍点]を意味する*。従って今云ったことから、大衆は非大衆を優越する処の集団を意味しなければならない。大衆という言葉が現代に至って初めて重大さを持って来たその言葉の意味に於ける大衆はそうなのである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 大衆は併し群衆[#「群衆」に傍点]とか公衆[#「公衆」に傍点]とかいう集団では無論ない(群衆と公衆との区別に就いてはタルドの≪L'opinion et la foule≫を見よ)。蓋し大衆とは政治的[#「政治的」に傍点]概念であって、このような社会学的[#「社会学的」に傍点]概念にはぞくさない。――社会学的とは、主として、歴史的・実践的・従って又政治的・原理[#「原理」に傍点]――単に歴史的事実[#「事実」に傍点]ではない――の排除を意味する。
[#ここで字下げ終わり]
大衆は政治的概念だと言った。そこで政治の技術に関する一つの概念として人々は多数[#「多数」に傍点]の概念を有つであろう。実際、大衆は多衆[#「多衆」に傍点]の概念に引き合わされるのを常とする。
単純に少数なるものは到底大衆ではあり得ないように見える。その限り、大衆は或る意味に於ける[#「或る意味に於ける」に傍点]多衆でなければならないようである。多衆とは無論一つの量[#「量」に傍点]的規定ではあるが、之は併し実際は、比較上[#「比較上」に傍点]の多少・程度の差[#「程度の差」に傍点]を云い表わすものではなくして、ただそれの大量性が、そのものの質[#「質」に傍点]を固有に決定する時にのみ、初めて多衆は所謂多衆となることが出来る。単に多数であるのではなくして、多数であるが故に特に一定の性質を有たされた限りの多数こそ、多衆の多衆たる所以を示すことが出来る。かくて多衆は常に、一つの質[#「質」に傍点]的規定にまで既に転化しているのが事実である。そこで人々は多衆のこの質を、性質を、如何に性格
前へ
次へ
全27ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング