テけるか。だが茲に必要なことは、多衆は元来様々の――構成員の資格其他によって異る様々の――多衆でありうるに拘らず、今は専ら、そのような種々相から抽象された・抽象的な多衆・多衆としての多衆、を思い浮べねばならぬ、ということである。何故なら、多衆という概念は特に、種々相の下に於ける多衆から抽象的なる多衆を抽象し出す企図の下に、行使の動機を有たされるのが事実なのであるから。でそのような多衆概念それ自身に固有な性格として(種々相の下に於ける多衆、の有つ性格とは別である)、量に基く圧倒性[#「圧倒性」に傍点]と質に基く平均性[#「平均性」に傍点]とを挙げることが出来るであろう。多衆はその圧倒性の故に、政治的に云って、有力なる勢力を意味することが出来、それ故にこそ或る範囲に於ける政治的事物決定の原理となることが出来るのである(多数決の原理[#「多数決の原理」に傍点])。と共に又他方に於て、多衆はその平均性の故に、他の意味に於て政治上、低劣なる価値の主体を意味することが出来るだろう。多衆のもつ平均性はそれが優越的でなければこそ平均性であった、そこでは人間はそれ自身に固有な[#「固有な」に傍点]・真の[#「真の」に傍点]姿を示す代りに、自己を失い、世俗的環境に渡されて見える。もはやその時、之は政治的事物決定の原理であってはならないと考えられる。何故なら平均性は、それが一つの原理となる時――例えばハイデッガーの 〔Allta:glichkeit〕となる時*――、ただ低劣性を云い表わす原理でしかあり得ないから。それにも拘らず、この平均性に何等か優越なる・積極的なるものが連想されるならば、それは実は前の圧倒性に外ならない、平均性に於て残るものは今はただ凡庸さ[#「凡庸さ」に傍点]だけである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 〔Allta:glichkeit〕 日常性[#「日常性」に傍点]の概念を、吾々はハイデッガーの個人主義的観点から救い出さねばならないであろう。日常性は一つの歴史的[#「歴史的」に傍点]――政治的[#「政治的」に傍点]――原理[#「原理」に傍点]にまで把握し直されねばならぬ(「日常[#「日常」に傍点]闘争」などの概念を見よ)。
[#ここで字下げ終わり]
多衆は一方に於て圧倒性の、他方に於て平均性の・性格を有つ。多衆は一方に於て強力[#「強力」に傍点]であり他方に於て低質[#「低質」に傍点]である。多衆は強力にして低質なる勢力、云わばデモン・悪鬼の類ででもあるようである。多衆としての多衆、単なる・抽象的なる多衆、多衆一般[#「一般」に傍点]、何等の条件[#「条件」に傍点]をも有たない多衆、例えばそれが有産者の多衆であろうが無産者の多衆であろうがそのような二次以下の条件を特に[#「特に」に傍点]超越した限りの多衆自体[#「自体」に傍点]、このような民主主義的[#「民主主義的」に傍点]多衆概念は、恰も今指摘した強力と低質とを、その二重性として、矛盾として、持っている。かかる民主主義的矛盾はみずからを、民主主義と貴族主義との、相対主義的・シーソー的対立として反映するのがその報いであるであろう。――今もしこのような多衆概念を以て大衆[#「大衆」に傍点]の概念に代えるならば、その時の大衆概念は恰も、最初に述べた処のかの非大衆的大衆概念[#「非大衆的大衆概念」に傍点]であったであろう。彼処に於て見られた大衆概念に於ける矛盾は、とりも直さず茲で見られる多衆概念に於ける矛盾――圧倒性と低質性――であったのである。それ故、大衆は単なる多衆[#「単なる多衆」に傍点]ではあり得ないことが今や明らかとなった。
民主主義的なこの多衆概念の自己矛盾は、ただ、圧倒性の止揚の方向、又は低質性の止揚の方向、の何れか、を通じてのみ止揚されることが出来る筈である。多衆が有った圧倒性が否定されるのは、そして、ただ多衆が積極的に無組織化[#「無組織化」に傍点]される時に限るであろう。多衆はこの時烏合の衆[#「烏合の衆」に傍点]となり、之によって多衆のかの低質性はその強度を大きくされる。単なる多衆[#「単なる多衆」に傍点]の概念へ、即ち単に多衆という類概念へ、無組織という条件が与えられる時、即ち無組織化という種差が付加[#「付加」に傍点]される時、この概念体は拡張[#「拡張」に傍点]され、その結果としてその概念の今茲に問題になっている限りの性格は反対物に転化[#「転化」に傍点]する。かくて多衆概念の自己矛盾はたしかに解消する。だが之は同時に多衆概念自身の解消を現実的には[#「現実的には」に傍点]意味している。何故なら、このようにその自己矛盾を解消された多衆概念は、もはや現実的に吾々の問題となることが出来る資格を有っていない、――吾々の問題は大衆であった――、吾々は圧倒性を持つ多衆をこそ問題とすべき歴史的現実的動機を持ち、特に圧倒性の反対物としての多衆を問題とする歴史的動機を現在有たなかった、から。それであるから多衆概念の矛盾の、この方向――圧倒性の止揚を通じての――に於ける止揚は、多衆概念の形式論的[#「形式論的」に傍点]・可能論的[#「可能論的」に傍点]・カズイスティック的[#「カズイスティック的」に傍点]分析の上で可能であり、それは併し現実的には、多衆概念自身の[#「自身の」に傍点]止揚に外ならないのである。概念の形式的救済が夫の現実的破滅を意味する処の、かかる現実的弁証法は、実際多くの形式主義的理論家が逆用する常套手段であるであろう。彼等は事物――例えば国家・階級等々――の形式的定義[#「形式的定義」に傍点]から出発し、そうすることによって実際には、その事物の性格[#「性格」に傍点]を否定することに成功するであろう。今が丁度それである。
大衆を語るに際して吾々の問題となった限りの多衆概念は、それ故、それが有つ低質性(平均性)の止揚の方向に於てのみ、その矛盾を止揚され得る。この概念の現実的動機、この概念が今使用され・取り出され・問題にされる歴史的条件、から云って、そうなければならない、と云うのである。
多衆の圧倒性はただ多衆の非組織化によってのみ止揚された、そしてただ夫のみがその低質性を強度ならしめた。そこで今度は、この低質性を止揚するためには、多衆の組織化[#「組織化」に傍点]が必要で又充分な筈である。多衆が組織化される、――初めは無意識的に、次いで意識的に――、その時の多衆はもはやかの民主主義的な単なる多衆ではない。それは取りも直さず、組織化[#「組織化」に傍点]された、又は組織化されるものとしての、多衆となったが故に。多衆が組織化される時、その圧倒性は反対物に転化するどころではなく、却って顕揚されることは云うまでもない。統制[#「統制」に傍点]と計画[#「計画」に傍点]とを持った圧倒性が茲から出現する。この統制と計画とを導き入れることによって、圧倒性に随伴した多衆の低質性こそは、反対物へ転化せしめられるであろう。と云うのは、茲で平均性――低質性はその語尾変化であった――は、もはや単なる平均性[#「単なる平均性」に傍点]ではない、何故なら、平均性は平均性に違いないがそれは切り下げられたる平均ではなくして、却って引き上げられた水準[#「引き上げられた水準」に傍点]をこそ意味して来るのだから。多衆は組織化されればされる程その水準を高める、その圧倒性が高められる所以である。かくて組織化されるものとしての多衆に於て、初めて、多衆概念のかの民主主義的矛盾は、実質的に――前の場合のように形式論的にではなく――止揚されることが出来る。だがこのようにしてその自己矛盾を解消された多衆概念は、それ自身もはや以前の――単なる[#「単なる」に傍点]――多衆を意味することは出来ない。多衆は組織化される、多の範疇[#「多の範疇」に傍点]は組織化される、この時もはや多[#「多」に傍点]の範疇は充分ではない、多衆の名称は性格的でなくなる。何故なら組織されたる[#「組織されたる」に傍点]ものが少数[#「少数」に傍点]であっても、それはなお多衆[#「多衆」に傍点]の組織であり得るのだから。多衆は従って今や、大衆[#「大衆」に傍点]とならねばならぬ。
このようなものが大衆[#「大衆」に傍点]の、大衆的な[#「大衆的な」に傍点]概念である。民主主義的多数[#「多数」に傍点]の概念を之が如何に止揚したかを、吾々は今見た。
大衆のこのような概念――組織化されたる又は組織化されるべき多衆――はまだ、併しながら至極一般的な規定をしか持たない。この概念を必要な程度に分析的に完備するためには、更に決定すべき積分常数がなお残されている。組織化[#「組織化」に傍点]こそ夫である。この常数を決定するためには併しながら、吾々は、歴史社会的――政治的――条件を借りる外はあるまい(大衆とは政治的なるものであった――初めを見よ)。今大衆をばこの点まで決定するならば(そして之が最後の決定とはならないまでも)、大衆とは就中、一つの階級[#「階級」に傍点]を事実上意味して来ないわけには行かない。何故なら多衆とは少数に対する処の、又大衆とは非大衆に対する処の、対立物であったが、そうすれば組織化多衆――大衆――なるものが、例えば一つの学派・社交界・聴衆等々を意味する理由も無ければ、そうかと云って又、国民・国家・民族等々を意味することも喰い違ったことであろう、から。大衆とは――この集団とは――階級の一つである、このことは単純に一個の事実に過ぎない。――それ故、多衆を大衆にまで組織化すとは、之を一つの階級にまで組織することの外ではない、組織化とは階級化である。
そこで人々は民衆[#「民衆」に傍点]の概念を思い起こす必要がある、民衆こそ大衆に最も近い概念である。民衆は然るに、常に被支配者[#「被支配者」に傍点]を意味する政治的[#「政治的」に傍点]概念であるだろう、支配は政治の根本性格である。それは単に法制的にではなくして又物質的に、政治支配を受けるものの集団を、被支配階級を、云い表わす言葉ではないか。そこで大衆は又、この被支配階級[#「被支配階級」に傍点]の名である(大衆に対立するかの非大衆が何であるかは、おのずから明らかであるだろう)。――だがこう云ってもまだ之は大衆の一応の[#「一応の」に傍点]概念にしか過ぎない。大衆の性格は、かの圧倒性[#「圧倒性」に傍点]と高度の水準[#「高度の水準」に傍点]は、何処へ行ったか。
茲まで来てもまだ吾々は、大衆概念をただ一般的に[#「一般的に」に傍点]語って来たに過ぎない。というのは、大衆の概念は、歴史の任意の・あらゆる・段階に、通時間的に通じるような、そういう一般的条件の下にのみ、取り扱われて来た。今や、歴史の夫々の現段階――歴史に固有なこの原理――という特殊な条件の下で、而も今の[#「今の」に傍点]現段階のものとして、夫は最後の決定を受けねばならぬ。かくして大衆が現段階に於て持つ処の、歴史的[#「歴史的」に傍点]・政治的[#「政治的」に傍点]・使命[#「使命」に傍点]が、大衆概念の最後の規定として決定されるであろう。――今之を決定したとしよう、さてその使命の遂行に必要な物質的基礎こそ、大衆のかの量の上の圧倒性[#「圧倒性」に傍点]に外ならず、この使命の意識的自覚こそ、大衆のかの質の上の高き水準[#「高き水準」に傍点]に外ならない。であるから、大衆の大衆的概念――夫がこの二つの性格を持っていた――はただ歴史的現段階の条件の下でのみ成立する。人々はこの点に注目すべきである。実際、もしこの条件を入れないならば、大衆のかの民主主義的矛盾――圧倒性と低質性との矛盾――は止揚され得なかったであろう。大衆の概念が、今[#「今」に傍点]、吾々にとって[#「吾々にとって」に傍点]、抑々問題[#「問題」に傍点]になり得た所以は全く茲にあった。
さて大衆のこのような性格を一言で云い表わす言葉が、大衆性[#「大衆性」に傍点]である。
大衆は単に組織化されたる又は組織化さ
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