黷驍烽フとしての多衆であるばかりでなく、又たえず自らを組織する処のものである。大衆はただ組織性によってのみ大衆であり得たが、組織はただ組織するという現実的過程に於てのみ組織であることが出来る。そうでなければそれは一つの静止した体系でしかないであろう。大衆はただ自らをたえず組織することによってのみ大衆であることが出来る。それ故にこそ却って、未[#「未」に傍点]組織大衆という言葉の意味も理解され得る理由を有つであろう。大衆のこの不断の組織性を特に代表している概念は、そして、前衛[#「前衛」に傍点]である。前衛とは単なる前衛ではなくして、正にただ大衆を組織する過程の上での前衛であり、そして大衆を組織するものは前衛を措いて外にはない。それ故前衛は自らを大衆から区別するに拘らず、両者は又恰も大衆の名に於て結び付いている。この――実践的な――弁証法に於て、前衛は具体的に――実践的に――大衆性[#「大衆性」に傍点]を有つのである。前衛の持つ大衆性は、前衛自らが直接に、従って抽象的に、多数であることに存するのでもなく、又自らは少数でありながら多衆を観想的に、従って又抽象的に、代表している[#「代表している」に傍点]――選挙法的に――ことに存するのでもなくして、正に、実践的に・従って具体的に・大衆階級を組織して行く過程の内にこそ存する。――かくて人々は見るべきである、大衆性の概念は、もはや単なる――かの抽象的なる――多衆性の概念ではなくして、恰もこの多衆性概念を止揚する――組織する――処のものであることを。大衆性とはそれ故、大衆が――非大衆がではない――大衆自ら[#「大衆自ら」に傍点]を高度にし強力にする処の、大衆のこの組織性[#「組織性」に傍点]でなければならない。大衆が有ち得るかの圧倒性と高度の水準とは専らこの性質によって保証される。大衆性とは何物でもない、ただ大衆の組織性である。或る事実が大衆性を持つとは、それが大衆を何等かの意味で組織する力を有つことである。
大衆化[#「大衆化」に傍点]とはであるから、大衆の組織化によって大衆の高度と強度とを大にすることの外の何物でもない。或る事物を大衆化すとは、その事物を大衆――否寧ろかの多衆――にまで低めることではなく、却って大衆をこの事物の高さにまで組織することを意味しなければならない。何故なら、事物を大衆化するものは恰も大衆自身[#「大衆自身」に傍点]であって、非大衆であってはならなかったのだから。大衆化の概念に於ては、従来の教育や啓蒙の概念は方向を転倒されねばならぬ。
かくの如きが大衆と大衆性との、又大衆化の、現実的な概念であるだろう。尤も、もし現実的ではなくして単に可能的な概念を求めるならば、恐らく夫は何とでも云えることである。併し何時も大事なことは、今茲で何が問題になっているか、である。この問題が、そこに問題になっている概念の形態――性格――を強制する。
吾々は科学の[#「科学の」に傍点]大衆性の問題に這入ろう。併しそのためには予め科学に二つの種類を区別しておくことが必要である。吾々は科学を日常的[#「日常的」に傍点]と非日常的[#「非日常的」に傍点]とに区別しようと思う。蓋し前者に於ては日常的原理[#「日常的原理」に傍点]――日常性[#「日常性」に傍点]――が本来支配し、後者に於ては之が本来は支配しない、と考えられる理由があるから*。
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* 日常性(又は特定の意味に於ける常識性)に就いては、他の機会に述べようと思う。二つの科学の区別に就いては一応 K. Mannheim, Das Problem einer Soziologie des Wissens.(〔Archiv fu:r Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, 1925, Bd. 53. S. 621―622〕)を見よ。なお拙著『科学方法論』〔前出〕参照。
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[#3字下げ]二[#「二」は中見出し]
科学の大衆性を口にする時、第一に思い起こされるのは恐らく、科学の通俗化[#「通俗化」に傍点]であるだろう。どのような科学も、日常的科学であろうと非日常的科学であろうと、それ自身では決して通俗的ではあり得ない。何となれば、どのような科学もそれを科学的に確実な・明晰判明なものとしようとすれば、勢いその操作又は分析が実際上は複雑となるのであり、従って却って外見上は、或る意味に於て難解となるのが普通だからである。科学的[#「科学的」に傍点]に好く判るようにするためには、却って通俗的[#「通俗的」に傍点]には把捉し難くなるような犠牲を払わねばならないのが、多くの場合であるだろう。併しそれにも拘らず、一切の科学は通俗化され得る。と云うのは、その科学的操作又は分析を一々実地に表現する代りに、その出発点と帰着点とを、大体の道筋と共に、提供することは、必ず出来る筈に相違ない。科学者はここで、自己の採った手続きが科学的であったことをば、非科学者をしてまず信用せしめ、そうすることによって一まず、大体の予備[#「予備」に傍点]観念を非科学者に与えようとする。だが之は取りも直さず予備観念であるのだから、この非科学者は、之を信用することから始めて、やがてみずから科学的手続きを実地に獲得する、という約束の下に置かれている。通俗化とは実際、多数の非科学者を科学的ならしめるための概念であるだろう。通俗化に於て科学者と非科学者とは、社会的に、教育者と被教育者との関係に置かれる、通俗化とは社会教育的[#「教育的」に傍点]な概念に外ならない(之は一つの教育的な啓蒙[#「教育的な啓蒙」に傍点]を意味する)。――それ故科学が通俗化される時、科学は決してそれ自身の原理――科学性――以外のものに服するのではない、ただそれ自身の原理をより高めようとする実際的な目的のためにのみ、それ自身を一応被教育者の水準にまで近づけるに過ぎない。科学が科学のための科学[#「科学のための科学」に傍点]――アカデミー[#「アカデミー」に傍点]とは今の場合さし当り[#「さし当り」に傍点]之である――であることは、通俗化されることによって少しも変るのではない。通俗化とは従って、全くアカデミーの範囲内にぞくする概念である。で、もし通俗化が大衆化[#「大衆化」に傍点]であるとしたなら、その時の大衆は全く、社会に於ける従順な生徒を意味することとなろう。大衆のこのような云わば師範式概念は、吾々の意味する大衆ではなかった*。
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* 通俗化意識はその皮肉として、一つの対蹠物を産むことが出来る。衒学[#「衒学」に傍点]が之である。衒学は一方、アカデミーへの押しつけがましい参与であると共に、他方、素人威し[#「素人威し」に傍点]を意味する。かくて威された素人が、今云った誤られた――師範式――大衆概念である。
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第二に思い及ぶものはジャーナリズム[#「ジャーナリズム」に傍点]である。但し現在、科学のジャーナリズム化は、科学の報道化[#「報道化」に傍点]と科学の商品化[#「商品化」に傍点]とを意味している、後者は後の連関にゆずり、今は前者だけを問題としよう。通俗化が社会的に云って教育者と被教育者との対立の上で行われたに対して、報道化は専門家[#「専門家」に傍点]と素人[#「素人」に傍点]との対立の上で行われる。或る一つの科学部門に於て専門家である人も、他の科学部門に対しては素人である外はないから、茲では専門家だけが何かの科学者であるのではなくして、素人も亦一人の科学者であることが出来る。通俗化の場合に於ては、社会に於ける被教育者は全面的に低度の知識水準を有つわけであったが、報道化に於ては、素人は或る部門に於てだけ水準が低いのであるから、一つの科学部門の専門家Aと素人Bとを、夫々その全面性に於て観察すれば、一般に、AとBとは社会的に同格の知識水準を占める可能性があると考えねばならないわけである。それ故素人の社会に於ける総体は専門家の社会に於ける総体に対して、同程度の水準を持つものとして対立することが出来る。世間[#「世間」に傍点]がアカデミー[#「アカデミー」に傍点]に対立する、素人は専門家に向って、象牙の塔を出ることを忠告さえしようとする(だからこの素人はかの威された[#「威された」に傍点]素人ではないことを注意せよ)。茲では常識一般[#「常識一般」に傍点]が専門一般[#「専門一般」に傍点]に対して太刀打ちが出来ると考えられる(無論或る一つの[#「一つの」に傍点]部門に就いては常識は専門に対して太刀打出来ないが)。であるからジャーナリズムは無論アカデミー内部に行われるのではない、そうではなくして、アカデミーと世間との、専門と常識との、対立に於て初めて行われるのである。人間が素人としてもつ常識性は専門性――科学性――とは独立な独自の原理を意味しているのであり(今の場合の常識――常識一般――は決して単に科学前の未熟な知識を意味するのではない)、科学がそれ自身の原理の代りにこの原理によって支配される時、それが科学の報道化となるのである。科学の報道化によって科学は常識の在庫品として整理され、人々は一切の専門的知識へのこの在庫品を通じて連絡を保とうとする。かくて人々はその所謂常識を豊富にすることが出来るわけである(報道化はであるから、一つの啓蒙ではあるが、もはや教育的啓蒙ではない)。――だが明らかにこの報道化は大衆化であることは出来ない。何となれば素人達の集団は専門家達の集団と対等であるとは云っても、之を優越する機能はない、素人達は専ら専門家達の与える材料を取捨選択[#「取捨選択」に傍点]は出来ても、専門家達の業績の科学的価値――真偽――に容嘴することは出来ないだろう、から。処が大衆は凡ゆる意味に於て優越なる、従って科学的真理の判定に於ても亦優越なる、集団である筈であった。素人は大衆ではない、報道化は、であるから大衆化である理由がない。
第三。常識性の概念は吾々を、実際化[#「実際化」に傍点]の概念へ導いて行くかも知れない。科学的研究の主体として、もし人々がプラグマとしての事物を選ぶならば、それが科学の実際化ということである*(之を実際生活に関する啓蒙と呼んでもよい)。前の報道化に於ては、科学の一定内容を取捨選択するものは常識の水準であるには相違なかったが、併しなお科学は、それよりも先に、それとは関係なく、それ自身の内容を選択する権利を保留することが出来た。処が今度は、科学自身が行なう筈であったこの内容選択までが、常識によって代って取り行なわれる場合なのである。従ってこの場合、常識はその限り専門を優越するかのようである。――だがかかる実際化と雖も決して大衆化[#「大衆化」に傍点]ではない。科学はそれが実際化されると否とによって、科学的真理を変更すべき何の理由も有たないから。科学的真理の保持者は科学自身[#「科学自身」に傍点]にあるのであって、科学の実際化[#「科学の実際化」に傍点]にあるのではない。それ故、プラグマとしての実際的事物に応対する人間・実際家[#「実際家」に傍点]は、結局、理論家[#「理論家」に傍点]の業績の科学的価値に容嘴する権利を持ち合わさない。実際家の集団は理論家の夫を優越し得ない。かかる実際家達はそれ故大衆ではない、実際化はであるから大衆化とは喰い違った言葉である。
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* 歴史的――日常的――事物を、歴史的[#「歴史的」に傍点]に見ずして、単に実用主義的[#「実用主義的」に傍点]に見るならば、それがプラグマという概念である。
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かくて科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]は、通俗化・報道化・実際化――要するに普及化[#「普及化」に傍点]――である理由が無かった。併し之は寧ろ初めからそうありそうなことであったのである。何故なら、大衆化とは階級化[#「階級化」
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