ノ傍点]であったのに、今まで挙げた様々な普及化は必ずしも階級との関係を示す必要はなかったからであり、又、科学の大衆性が、科学概念を批判・変革する程、科学にとって根本的なものである約束であったのに、科学のかの普及化は、科学のもつ真理価値[#「真理価値」に傍点]――科学のこの根本的なるもの――へ何の変化をも影響しないのだから。普及化は超階級的[#「超階級的」に傍点]啓蒙であり、超価値的[#「超価値的」に傍点]啓蒙であった。大衆化は然るに、そうではない。
科学の普及化[#「普及化」に傍点]――通俗化・報道化・実際化――は一切の科学に於て可能である。之に反して科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]は、原理的には、ただ日常的科学に於てのみ充分な意味で可能であり、ただそこに於てのみ重大な・根本的な・中心的な役割を持つことが出来るであろう。何故であるかは他の機会に譲ろう、今は仮にそうであると仮定しておく――前を見よ。科学の大衆化を語ろうとする吾々は、以下、特に日常的科学を頭に思い浮べて行かねばならぬ。
科学の大衆化を人々は、アカデミー化[#「アカデミー化」に傍点]に対立させ勝ちである。科学のアカデミー化とは、事物が、選ばれたる一定の人々――之は無論どのような意味ででも大衆ではない――にさえ理解出来れば好いとして、そのためには難解[#「難解」に傍点]をも辞しない、という態度であり、之に反して科学の大衆化とは、事物を大衆にとっても理解出来るように、平明[#「平明」に傍点]・容易[#「容易」に傍点]にすることである、とそう人々は考えるかも知れない。だが大衆化が容易化――それはかの通俗化に帰着する――ではなかったように、アカデミー化は難解化のことではない。元来科学は、或は場合に於ては、夫をどのように容易化しても、夫が科学的である以上、難解であることを免れず、又他の場合に於ては、之を如何に難解化――之が衒学[#「衒学」に傍点]である――しても実は難解になどはなり得ないであろう。素人おどしの衒学は、素人の常識が正常な感覚を持ちさえしたら、一眼で馬脚を露わす。容易か難解かは、科学にとって根本的な区別とはならない。科学が科学的であるためには、即ち許される限り多くの理解し得べき人々に理解出来るためには、科学は原則として最も理解するに容易[#「容易」に傍点]な形で述べられねばならないことは、初めから当然である。であるから、アカデミー化は、実は難解化を意味するのではない。もし何かの理由でアカデミー化が非難さるべきならば、人々はそこで実は難解化を非難しようとしているのではない。理論の叙述の仕方[#「叙述の仕方」に傍点]に関してアカデミー化を非難するのはその場合の問題ではないのである(それならばアカデミー化ではなくして衒学である)。もしこのようなアカデミー化に対立するものが大衆化[#「大衆化」に傍点]だと思うならば、大衆化とは、科学的無責任をしか意味しない。夫は大衆化の完全な――かの民主主義的な――歪曲であるであろう。
そうでなくして、アカデミー化とは科学が持つ問題提出[#「問題提出」に傍点]の上の一つの態度の名でなければならないのである。アカデミーに於ては科学のもつ問題は、全くアカデミー自身のもつ伝統の内からのみ発生する。このような諸問題は併しながら、この伝統の内でこそ、その必然性・解決の必要・を有つが、それであるからと云って、この伝統の外へ出てまでも、問題[#「問題」に傍点]としての資格を保てるとは限らない。処がアカデミーにとっては、問題と云えば取りも直さずかかる伝統的問題のことであり、之を解決して了えばもはや解くべき問題は無い。であるから、一定の科学が元来如何なる問題を解くべき使命を持って必要とされたかは、ここでは忘れられても好く、ただ大事な唯一の関心事は、逆に如何なる問題を選べば一定の科学にぞくし得るかである(之は哲学の問題であり彼は社会学の問題である、など。そのような問題は元来どちらの問題でもないに相違ない)。科学が事物を解決し得るか否かはどうでも好く、ただ人が何か一定の科学に従事する口実さえあれば好い。茲では事物[#「事物」に傍点]が(科学的に)研究される代りに、ただ科学[#「科学」に傍点]が(従って当然非科学的に)研究される、のを見ることが出来る。――それ故アカデミー的に真理[#「アカデミー的に真理」に傍点]であればある程、理論はその真価に於て[#「真価に於て」に傍点]却って虚偽[#「虚偽」に傍点]であることが出来る。何故なら、アカデミー化は問題の伝習化[#「問題の伝習化」に傍点]であり、従って之をアカデミー以外のものに対照して云えば問題の高踏化[#「問題の高踏化」に傍点]に外ならず、それは要するに問題の主観化[#「問題の主観化」に傍点]のことであるが、かくて問題がその客観性[#「客観性」に傍点]を失うことが、アカデミー化の虚偽であるのだから。――アカデミー化が非難されるのは、その難解の故ではなくして、正にこの虚偽の故にである。難解はかかる虚偽の副作用の一つに過ぎない。
アカデミー化・問題の伝習化・を可能にする条件は併し、無論アカデミー自身の存在の内に横たわる。まずそこには講壇[#「講壇」に傍点]が存在し、そして之が科学を講壇化[#「講壇化」に傍点]することが出来る(そこでは科学が講壇を決定するのでは必ずしもなく、逆に講壇が科学を決定するのだから)。即ち、講壇という社会的地位[#「社会的地位」に傍点]の特色が、科学的理論の構造の内に、反映され得るのである。講壇のその特色とは何か。アカデミー(講壇)は、その内部に於て社会的[#「社会的」に傍点]――社交的――であればある程、即ちその社会的位置を内部の交互作用によって確保すればする程、益々超社会的[#「超社会的」に傍点]となり、従って益々この超社会性を意識化・良心化・合法化・する、之がその特色なのである。かくて学界[#「学界」に傍点]は社会から独立化・孤立化して行かないわけには行かない。問題の高踏化・主観化はその結果であった。アカデミー化の虚偽はであるから、アカデミーそのものの存在の不幸の内に横たわる。
かくてアカデミー化はアカデミーの或る超社会性――従って又一応の超階級性[#「一応の超階級性」に傍点]――の結果であった。――処で科学の大衆化は科学の或る意味での階級化[#「階級化」に傍点]であった。その限り科学の大衆化とアカデミー化とは最も適切に対立するようである。併し、階級が対立物の概念である以上、一つの[#「一つの」に傍点]階級化は他の[#「他の」に傍点]階級化とこそ正面から対立すべき筈である。その限り科学の大衆化とアカデミー化との対立は、側面からの・間接な・二次的な・対立でしかない。
科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]に正面から・直接に・一次的に・対立するものは寧ろ、科学のジャーナリズム化[#「ジャーナリズム化」に傍点]であるであろう。そして之が又実際、アカデミー化[#「アカデミー化」に傍点]に対しても正面の対立物であった。但し茲で云うジャーナリズム化は前の機会に於てとは異って、もはや科学の単なる報道化[#「報道化」に傍点]ではなく、報道の商品化[#「商品化」に傍点]を通じての、科学の商品化[#「科学の商品化」に傍点]を意味するであろう。
科学のジャーナリズム化が、科学の商品化であるなら、科学の価値がもはや真理でなくして利得となるという点の良し悪しは別としても、その利得すらがもはや大衆のもの[#「大衆のもの」に傍点]でないことは、注意されねばならない。のみならず、ジャーナリズムを産み又それから産れる処の、ジャーナリズムの顧客である公衆[#「公衆」に傍点]なるものが、元来大衆[#「大衆」に傍点]ではなかった*。実際、公衆――読者・読書界・聴衆・ファン・等々――は政治的な組織性[#「組織性」に傍点]を有つものではない、組織性を有たないものは大衆ではなかった。ジャーナリズムは往々想像される処とは異って、であるから決して大衆のもの[#「大衆のもの」に傍点]ではないのである。科学のジャーナリズム化は実際、その顧客である公衆なるものの性質を通じて、或る範囲或る時期の内では、大衆の組織化に与らないのではないが、一旦この限界に到着すると、この公衆の同じ性質を通じて、却って実質上は大衆の組織化を解体し、従って間接にまたは直接に、非大衆[#「非大衆」に傍点]――反大衆――の組織化に与る、そういう機能を有ちはしないか(今日代表的と考えられる大新聞や評論雑誌を見るが好い)。商品としての科学の顧客である公衆が、大衆を非大衆にまで裏切ることの出来る性質を、元来持つからである。――さて科学のジャーナリズム化がそういう一定の機能を営み出す時、そこに見出されるものは、大衆並びに非大衆の側に於ける科学の俗流化[#「俗流化」に傍点]であるであろう。俗流化という言葉は直ちに反価値を云い現わしている言葉であるが、その反価値とは、ジャーナリスティックな公衆を媒介として、大衆を大衆となす代りに之を非大衆にまで非大衆化[#「非大衆化」に傍点]し、かくして大衆を裏切る処の、一つの虚偽[#「虚偽」に傍点]を指す名であるだろう。科学のジャーナリズム化が商品化である限り、夫は科学の非大衆化にまで必然的に転化し得る性質を有っている。ジャーナリズム化――商品化――こそ科学大衆化の正反対物に外ならない。
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* 公衆に就いてはタルドの前掲書を見よ。
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科学の大衆性の正反対物が、人々の想像する処とは異って、アカデミー――高踏化――であるよりも、寧ろジャーナリズム――俗流化――であることは、実際問題として特に注目に値する。
科学の高踏化[#「高踏化」に傍点]とその俗流化[#「俗流化」に傍点]とは、科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]の名に於て批判さるべき、二つの虚偽である*。夫を吾々は今までで見た。科学の大衆化という、この階級的[#「階級的」に傍点]啓蒙は、この二つの虚偽を――インテリゲンチャと有産者とに対して――批判することを以て、始めねばならぬ。そうした後になって初めて、科学大衆化の積極的任務が具体的な形で課せられ得るであろう。――さて今までの吾々はこの前半を取り扱った、科学の大衆化が何で無いか[#「何で無いか」に傍点]、を。次に後半を、科学の大衆化が何であるかを[#「何であるかを」に傍点]、改めて見よう。
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* 科学の通俗化・報道化・実際化・は之に反して虚偽[#「虚偽」に傍点]ではなかった。之等のものはそして、没階級的啓蒙[#「没階級的啓蒙」に傍点]であったことを注意せよ。
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大衆性とは、大衆化とは、事物が単に普及されることではなくして、大衆がその事物の水準の高さにまで組織化されることであった。従って科学の大衆性とは、科学を大衆化すとは、大衆がその科学を把握し得るような水準にまで組織化されることである筈であった。科学[#「科学」に傍点]が大衆にまで降りて来ることではなくて、大衆[#「大衆」に傍点]が科学にまで昇って行くことが、科学の大衆化なのである。それ故科学の大衆性[#「科学の大衆性」に傍点]とは実は大衆の科学性[#「大衆の科学性」に傍点]でなければならない。この点は根本的に重大である。この意味を説明しよう。
科学は云うまでもなく科学するものの存在[#「存在」に傍点]を離れては存在しない、であるから、科学は科学するものの存在を離れて考え[#「考え」に傍点]られてはならない。今科学の大衆性という問題に就いてはそれ故、単純に科学[#「科学」に傍点]をまず第一に語るべきではなくして、科学する大衆[#「大衆」に傍点]をまず初めに語る必要が生じて来る。科学があって科学の大衆性が問題になるのではなくして、大衆があって科学の大衆性が問題となるのである。科学せんとする大衆がまず存在して、その上で科学の大衆化が必
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