vとなって来るのである(もしそうでなければこの問題それ自身が大衆性を持たないであろう)。であるから云うことが出来る、「科学の大衆性」の問題は実は[#「実は」に傍点]「大衆の科学性」の問題である、と。大衆自身が科学を必要とする時初めて、科学は大衆化され得る、という平凡な事実が之である。
併し大衆自身が科学を必要とする時は、大衆が一定の政治的[#「政治的」に傍点]意識を有つ時である、何故なら、科学は――吾々は日常的(歴史的・政治的[#「政治的」に傍点])科学を頭に置く約束であった(前を見よ)――政治的意識によって初めて一定の方向に向って必然にされると考えられるから、である。今日大衆を科学にまで駆る動機は、かの名高い驚異の念[#「驚異の念」に傍点]ではなくて、正に政治的要求[#「要求」に傍点]であるだろう。そして大衆が一定の政治的意識を有つ時は已に、大衆が一定の政治的組織化[#「政治的組織化」に傍点]を――意識的に又は自然発生的に――蒙った時なのである。それ故大衆の科学性[#「大衆の科学性」に傍点]とは、大衆の社会的・政治的・組織化によって必然にされたその観念的反映の外の何物でもない。従って又科学の大衆性は、大衆の政治的組織化[#「大衆の政治的組織化」に傍点]――それは必ずしも意識的・観念的ではない――の上に立って初めて可能なのである。重ねて云おう、科学の大衆性とは、大衆の政治的組織化の観念的反映である。――之が科学大衆性の第一の[#「第一の」に傍点]規定であるだろう。
併しながら、科学のもつ大衆性それ自身が又直接に、大衆の何等かの組織化である筈であった。科学のこの大衆組織化は、今云った政治的組織とは直ちに一つではない、前者は後者の観念的反映であったから。だがそれにも拘らず、科学のこの大衆組織化は矢張り政治的[#「政治的」に傍点]性格を失うものではない。なぜなら、之は観念形態[#「観念形態」に傍点]を通じての組織化であり、従って観念形態が一つの政治的役割――それは云わば観念的な役割である――を持つ限り、之は再び大衆の政治的組織化に――意識的に――与らないわけにはいかない、から。科学は云わば観念的に[#「観念的に」に傍点]大衆を組織化する(そしてかかる観念的組織化は政治的組織化に欠くことが出来ず又その重大な一部分でさえもある)。さて科学がこのような――大衆の観念的組織化という――機能を有つ時、それが、科学の大衆性の第二[#「第二」に傍点]の規定となる。――もし或る科学が、大衆の半ば無自覚・無媒介に持つ意識をば解明し、之に科学的(理論的)根本性を与え、そうすることによってこの意識をば夫が向わねばならずにいた一定の焦点へ志向・集中せしめ、それと同時に、この焦点を尖端として逆にこの意識[#「意識」に傍点]内容一切を理論[#「理論」に傍点]にまで整理するならば、その科学こそは大衆性――第二の規定としての――を有つのである。未組織諸観念を理論にまで合目的的に整理することが、科学の今の大衆性であるだろう。かくして大衆の大衆的――階級的――意識水準[#「意識水準」に傍点]は高度となり、それが又逐次に夫に相当する理論水準[#「理論水準」に傍点]にまで翻訳される*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 科学の大衆性が大衆の観念的組織化であればこそ、大衆化が大衆の前衛にまで及ぶ時、そこに例えば指導原理[#「指導原理」に傍点]が、科学的に而も大衆的に[#「科学的に而も大衆的に」に傍点]、樹立されることも出来る。もし大衆性が科学の普及化などであるならば、凡そ指導原理なるものはそれが大衆的であるだけそれだけ、却って科学的でなくなる筈である。
[#ここで字下げ終わり]
第三に、大衆を組織化するものは大衆みずからであった、大衆を組織化するものは非大衆ではなかった。従って科学の大衆性を保証する者も亦大衆みずからでしかない。それ故に又実際に科学の大衆性を保証するためには、科学の研究方法[#「研究方法」に傍点]それ自身が大衆的[#「大衆的」に傍点]――組織化的[#「組織化的」に傍点]――でなければならないわけである。というのは、研究の内部的な手続きが体系化でなければならぬというのではない(夫は云うまでもなく必要である)、研究者自身が相互に――政治的に――組織化されざるを得ないと云うのである*。――この第三の規定は、科学大衆性の第一・第二の規定から来る至極当然な結果に過ぎない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 座談会・読書会・研究会・研究所・等々が、大衆的科学の科学自身の性質[#「科学自身の性質」に傍点]から云って必然である所以は、茲にある。所謂教育[#「所謂教育」に傍点]――それは現在科学[#「科学」に傍点]と何等関係がないのにも拘らず常にそれと混同されている――とは如何に異った範疇に之がぞくするかを見よ。
[#ここで字下げ終わり]
ここまで来ると人々は、科学の大衆化なるものが科学の政治的性格[#「政治的性格」に傍点]に帰着することを、もはや見逃さないであろうと思う。処が科学の政治性こそ科学の優越なる実践性[#「実践性」に傍点]なのである。それ故、科学の大衆性とは科学――理論――の実践性に帰着する処のものの謂であった。
科学の大衆化が科学の政治的[#「政治的」に傍点]規定であるから、正にそれであるからこそ又、夫は科学の論理的[#「論理的」に傍点]規定でなくてはならぬ。蓋し日常科学――吾々は今之を頭に置く約束であった――に於ける論理・日常性の論理は、それ自身政治的性格[#「政治的性格」に傍点]を有つと考えられるからである。例えば弁証法的論理――之は日常的論理である――の特色は、それが自己独立的な論理としては存在を包み切ることが出来ず、従って存在を支配し切れない、処にあり、そこでは却って存在が論理の構造――真偽関係――を決定しなければならないのである。処がこの存在が歴史社会的・即ち又政治的・存在である限り、論理はその構造自身の内に、存在の政治的条件を反映せざるを得ないであろう*。科学の大衆化はそれ故、科学が真理であるか虚偽であるかの価値に関わる。科学が大衆性を持つか持たないかは、科学の外から科学に付加されたどうでも好い条件ではなくして、科学そのものの根本的な本質的な条件をなす。そのことを吾々は実は最初から云っておいた。処が又吾々は已に、科学の云わば超大衆性[#「超大衆性」に傍点](アカデミーがその代表物)と非大衆化[#「非大衆化」に傍点](俗流化がその代表物)が大衆化によって批判さるべき二つの虚偽[#「虚偽」に傍点]であることを見てある。科学の大衆化とはであるから、科学の真理性[#「真理性」に傍点]の一つの名でなければならなかった。日常的科学は今日、大衆性[#「大衆性」に傍点]を持つことによって、初めて、真理[#「真理」に傍点]となることが出来る。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* この点を明白にするために私は「論理の政治的性格」を書いた。
[#ここで字下げ終わり]
それであるから最後に、科学の大衆性は、論理の階級性[#「論理の階級性」に傍点]の一つの名に外ならない*。そして論理の階級性[#「論理の階級性」に傍点]は、科学の階級性の最も優越な顕著な場合であるだろう**。科学の大衆性とは、かくて科学の階級性の一つの実質であった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 階級的論理[#「階級的論理」に傍点]という概念を吾々はヨゼフ・ディーツゲンに負う。恐らく之に対して、「階級の論理」という言葉を無意味だとするものはマックス・シェーラーである(Die Wissensformen und die Gesellschaft)。彼によれば階級的科学[#「階級的科学」に傍点]という問題は――論理[#「論理」に傍点]の問題ではなくして――「社会学的[#「社会学的」に傍点]な偶像論」にぞくすべきものである。
** 科学階級性の問題は、科学の歴史的発展[#「歴史的発展」に傍点]に於ける階級性の問題と、科学の理論内容の論理[#「論理」に傍点]に関する階級性の問題との、総合でなければならない。問題を前者だけに限れば論理上の非合法主義[#「主義」に傍点]であり、後者だけに限れば論理上の合法主義[#「主義」に傍点]となる。併し本来の問題は、前者が如何に後者となって現われるか[#「前者が如何に後者となって現われるか」に傍点]、両者が如何に媒介[#「媒介」に傍点]されるかにあるであろう。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「戸坂潤全集 第二巻」勁草書房
1966(昭和41)年2月15日第1刷発行
1970(昭和45)年9月10日第7刷発行
底本の親本:「イデオロギーの論理学」鉄塔書院
1930(昭和5)年6月
※底本で使用されている二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2−67)と「≫」(非常に大きい、2−68)に代えて入力しました。
※底本では、「”」の二点は右下に、「“」の二点は左上に、置かれています。
入力:矢野正人
校正:トレンドイースト
2010年4月4日作成
2010年5月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全27ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング