チ殊性が普遍化せられたからと云って、少しの困難も見出される筈がないのである。それどころではなくこのような場合に於てこそ、生命ある・現実に理論されるものとしての、理論の著しい特色を吾々は見るのである。も一遍云おう、後々の問題の口火となるような或る有望な資格を有った特殊問題が立場へ移行することによって、その特殊性を一般性にまで高め得ることは、理論の成立に於て何の困難を有つものでもないばかりではなく、実にこれこそ理論の現実的な代表的な機能でなくてはならない。
併し今必要なことは、そうではなくして、問題がこのような将来の理論の展開に有望な特殊問題でないにも拘らず、その時でも、凡そ特殊問題なるものが常に、立場へ移行することによってその特殊性を一般性へ転化せしめるという点である。或る問題が理論展開の上でどのような資格を有とうとも、それとは無関係に、この問題が立場へ移行することは常に[#「常に」に傍点]、それの普遍化を意味するという点である。であるから、今もし不幸にして問題が理論展開上有望な資格を有つのでないとしたならば、立場とはとりも直さず問題の没批判的拡大[#「問題の没批判的拡大」に傍点]を意味する外はなくなるであろう。例えば自然という問題が立場へまで移行する時、自然主義とも呼ばれるべき自然科学の形而上学[#「形而上学」に傍点]が成り立つと考えられるであろう。この場合形而上学という言葉によって立場の独断的拡大を人々は理解する、そして立場のこの独断的拡大がとりも直さず、問題の没批判的拡大に外ならない。立場はであるから、問題の没批判的拡大を意味する危険をもっているのである。故にもし人々が理論に就いて、問題[#「問題」に傍点]の概念を把握する代りに立場[#「立場」に傍点]のそれを把握しようと欲するならば、そこには問題の没批判的拡大[#「問題の没批判的拡大」に傍点]の誤謬に陥る危険を防ぐ手懸りがないかも知れない。即ち茲に、普通の意味に於て批判的な、というのは立場の整合を吟味した限りに於て批判的な、立場もこの点から見てなお没批判的であり得ることを、人々は見るべきである。例えば人々は意識の問題を整合的に解決することによって、即ちそのような立場に立って、実は恰も意識の問題に対して疎外的であることをその特色とする問題――例えば物質概念がそのようなものと考えられている――を解こうと試みる。そのような理論は成程立場[#「立場」に傍点]に就いては批判的であろう、問題[#「問題」に傍点]に就いては併し依然として没批判的であることを妨げない。――吾々が立場の概念よりも問題の概念を採ろうとする現実的な必要は茲に重ねて明らかではないか。
問題から立場への移行が普遍化[#「普遍化」に傍点]であることは、更に、立場が問題の絶対化[#「絶対化」に傍点]を意味する場合を説明する。特殊は他の特殊によって置き換えられる可能性を有つ点に於て、相対的であると云うことが出来る。然るに普遍者は常に唯一であるから、他によって置き換えられないと云う意味に於て絶対的と考えられる。この意味に於て普遍化は絶対化なのである。処が問題から立場への移行は普遍化であったから、この移行は又絶対化でなければならない。それ故、問題の位置に人々が止る限り、問題は相対的なのであるが、その問題が、もはや問題ではなく一旦立場となるならば、その立場が絶対的である以上、この立場としての問題は絶対的となる。従って問題を問題としてではなくして立場として理解する人々は、おのずから絶対的な問題[#「絶対的な問題」に傍点]の存在を信じようとするであろう。実際、或る人々にとっては、例えば宗教意識の問題が最後の最高の絶対的問題であり、他の諸問題は恐らくただ之に関係づけられてのみ、問題としての資格を与えられる、かのように見えるであろう。一般に、問題を問題としてではなく立場として理解する時――例えば最も具体的な立場を求めよと云うが如き場合――、結果するものは常に何かの絶対的問題である。之に反して問題を真に問題として理解する人々にとっては、如何なる問題も、常に或る意味に於て相対的でなければならない。ただ或る特定の相対的な問題が、他の問題に較べて、或る特定の場合に於て――そしてただ其場合に於てのみ――、その普遍的な解決のためには、より必然な問題であるということを、常にその人々は認める必要があるというに外ならない。蓋しかかる相対主義――普遍科学的相対性理論――が問題[#「問題」に傍点]とする処は、所謂絶対的なるものへ常に或る限界条件――歴史社会的な――を与えることに存する。そうしなければ凡そ問題は現実的[#「現実的」に傍点]に解決することが出来ず従って理論は実践的ではあり得なくなるから。之に反して、立場[#「立場」に傍点]としての所謂相対主義は絶対的相対主義という一つの絶対主義の外ではない。何となれば、かかる立場の純化――その整合の徹底――はかかる立場の絶対化なのであるから。そしてその結果は懐疑論なる認識論的立場[#「立場」に傍点]であることを人々は知っている。立場としての相対主義のこの絶対化――絶対主義――の観想的[#「観想的」に傍点]な性格が、この場合判断中止[#「判断中止」に傍点]となって現われるのは当然である。処が吾々の相対論の問題[#「問題」に傍点]――立場ではない――とする処は、恰も之と正反対に、問題の現実的な実践的[#「実践的」に傍点]な解決であったのである。――故に一般に所謂相対主義と所謂絶対主義の対立は、実は二つの立場[#「立場」に傍点]の対立であるのではない。そうではなくして正に、問題[#「問題」に傍点]の概念と立場[#「立場」に傍点]の概念との対立に相当するものなのである。それ故所謂相対主義は、絶対主義と対等な資格を有つにも拘らず、立場としては[#「立場としては」に傍点]一応薄弱に見えるのである。そして問題の概念を重んじることと立場の概念を重んじることとのこの対立は、実は又二つの問題[#「問題」に傍点]の対立――例えば歴史的社会的問題[#「問題」に傍点]と形而上学的神学的問題[#「問題」に傍点]との対立――に動機づけられているに外ならないのである。相対主義と絶対主義とを、二つの立場[#「立場」に傍点]として対立せしめれば、そこに結果するものは水掛論である、吾々は既にそれを見た。そうではなく之を二つの問題[#「問題」に傍点]に於て対立せしめれば、二つの主義は調停の条件を持ち合うことが出来るであろう*。――かくて問題の概念が立場の概念を優越する間接の証拠は、茲にその一つを示してはいないか。
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* 例えば或る意味の絶対主義がとりも直さず或る意味の相対主義に外ならない、というように。之は勿論二つの立場[#「立場」に傍点]の折衷を意味しない。
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立場は、その概念の性格から云って、或る意味の絶対化であることが明らかとなったと思う。絶対化は常に非歴史化[#「非歴史化」に傍点]である。立場がどのように非歴史化的概念であるかを、改めて今見よう。
立場は整合を意味した。整合を論理的根拠・基礎としてその上に立てられた限りの理論内容は、体系[#「体系」に傍点]と呼ばれる。体系は立場の上に立つ。尤も体系的であることは時に、組織的であることを、即ち組織的方法[#「方法」に傍点]によることを、意味するであろう。処が今云う体系は恰も方法に対立する処の体系なのである。さてかかる体系は必ず一つの完結した終止を云い表わす。現実に於て成り立つ体系は必ず常に不完全であるから、体系は事実上決して静止していないには違いないが(例えば開放的体系[#「開放的体系」に傍点])、併しそれにも拘らず体系の概念は、現実的乃至理想的な一つの状態[#「状態」に傍点]――静止――を指し示す。例えば同じ目的行動であっても、既に一定の内容が這入った限りの目的を実現しようとする場合と、そうではなくして何かの目的内容を決定するために行動している場合とでは、目的の概念は異る。前の場合の目的は既知の理想状態[#「理想状態」に傍点]であり、後の場合の目的は行動の一般的動力に過ぎない。丁度この意味に於ける理想状態の状態という意味で、体系は状態であるのである。体系はそれが組織されつつある・体系立てられつつある・現実の瞬間――現在――に於ては、それ自身と矛盾する。何となればそれは正に状態であって之に反する過程ではないから。従って体系は常に、既成の(過去の)存在か、又は(未来の)ユートピアか、の何れかでしかない。体系が現実の過程を脱却している概念なのであるから、その性格を決定するものは、歴史的過程[#「歴史的過程」に傍点]ではなくして例えば論理的構造[#「論理的構造」に傍点]であることは必然である。というのは体系はただ、その論理的構造が完全であればある程、優れていると考えられる。論理的構造とは整合――立場――に外ならない。体系が立場に基く所以である。かくて立場は非歴史的概念であることが示された。
(問題は之に反して方法[#「方法」に傍点]と結び付いている、問題が提出されればそれを解決すべき方法はすでに与えられたのであり、又どのような問題を選ぶかは方法の第一歩を意味するのだから。処で方法は体系と正反対に、現実的過程そのものであるであろう。方法は歴史的過程にぞくす。問題は従って常に歴史的でなければならないわけである。――吾々は問題の歴史社会的規定を既に見ておいた。)
問題は歴史的であり、立場は非歴史的概念であることが明らかとなった。之を予想[#「予想」に傍点]の概念に関係づけて区別しておこう。立場は極小の予想――それが独断的であろうと無かろうと――から成立するのが最も優れていると考えられる。予想なき立場は、この絶対的出発は、立場なき立場[#「立場なき立場」に傍点]として、立場の上乗に数えられる。併し形式論理学的同一律こそ極小の予想を有つものではないか。併し実際は人々は夫々の問題[#「問題」に傍点]を有っている。そして問題は或る意味に於て予想そのものに外ならない。何となれば、問題は常に歴史的に与えられ又は発見されるのであったから。社会に存在する説話が・神学が・世界観が、理論に対して問題を予想せしめるのである。立場は予想からの自由であり、問題は或る意味に於て予想そのものである(但し問題は常に批判されたる予想であってドグマであってはならない。そしてドグマからの自由は必ずしも予想からの自由ではない)。問題の歴史性は再び茲に明白である。
問題の概念は理論を歴史的に規定せしめ、之に反して立場の概念は理論を非歴史化す。何かの理論をその立場として把握することは、之を形式化し、平面化し、本質化し、同時存在化することである。それは理論が理論としてもつ性格――歴史社会的性格[#「歴史社会的性格」に傍点]――を中庸化し凡庸化することである。之に反して何かの理論をその問題に於て把握することは、之を歴史社会的規定に於て見ることであり、之を歴史化し、性格化し、立体化し、内容化することである。故に今や人々は、如何なる理論に対しても、之を単に何かの立場に還元し、その整合――その体系・その論理的仮定――を吟味することによって、その理論を正当に批判し得る、と思うことを許されない。理論は凡て、それを動機づけたそれに固有な問題にまで遡ることによって、そしてただ其処からのみ、その性格を把握されるべきである*。或る理論が有つ問題そのものを把握せずして単純にその立場の可能不可能を論ずることは、無意味であり又は有害である。この結論は今まで述べて来たことによって一義的に明白であるであろう。処がそれにも拘らず、人々は往々理論の立場の整合のみに心を奪われて、それを動機づけた問題を理解することを怠る。かくてその性格を見失うことによって、中和的となり、かくて人々は自らを公平にして批判的であると呼び得るのである。
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* 注意すべきは問
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