X。カントの突発的問題は新カント学派の既成的問題へ転化したと云ったならば人々はその言葉を許さないであろうか(但し問題の内容的価値がそれだけ減じたと云うのではない)。新カント学派という名称それ自身がそれを物語っている。エピゴーネンテュームの問題がどのような意味に於ても独創的でない、などと云うのではない。優れたるカント学徒によって独断的にではなく批判的に、そのまま受け取ったのではなくして多くのものから特に態々選出されたものである限り、この諸問題は充分に独創的であったであろう。ただ結局それがカントから、カントによって与えられた既成的なる問題の比較的単線的な攪拌乃至蒸溜から、生じたことに重心を有つ点には変りがない。カントを超越する(独創的である)ことは要するにカントを理解する(カント的問題を伝承する)ことに外ならなかった。この点に於て突発的問題では到底ないと云うのである。さて突発的問題から既成的問題へのこの転化を、転化として、即ち異った二項の間の一定の関係として、意識せしめる媒介は、恰もカント的立場[#「立場」に傍点]でなければならなかった。かくてカント学派的問題[#「問題」に傍点]――それは既成的問題[#「既成的問題」に傍点]の代表者であった――はカント的立場[#「立場」に傍点]から動機づけられる。故に一般に、既成的問題とは立場を経た問題[#「立場を経た問題」に傍点]を意味する。逆に突発的問題とは立場を経ない問題を意味するわけである。
どのような問題も立場に立ち又はやがて立つべきだと前に述べたが、立場を経ない問題という概念[#「概念」は底本では「既念」]は之と矛盾するではないか、と人々は問うかも知れない。併し立場に立つ[#「立つ」に傍点]ことと立場を経る[#「経る」に傍点]こととは全く別である。前者は歴史的規定とは無関係に、理論的整合に立脚することであり、之に反して後者は、歴史的経過を意味する。立場――理論的整合――は超歴史的であるが、問題――それは一般に立場を動機づける歴史的動機であった――が歴史的にこの超歴史的なる立場を経、又は経ない、というのが今の場合の区別であった。
吾々がかく説明するのに拘らず、どうあっても、逆に問題が立場から出発[#「出発」に傍点]する――立脚[#「立脚」に傍点]するだけではなくて――のであると思える人々があるならば、その人々の所謂立場なるものは、恐らく問題としての立場[#「問題としての立場」に傍点]であって、決して立場としての立場[#「立場としての立場」に傍点]――[#「――」は底本では「――――」]それは整合であった――を意味するのではないであろう*。実際何人も単なる整合――整合としての整合――からは出発[#「出発」に傍点]しない、たといその理論をそれに還元[#「還元」に傍点]しようとするとも。もし之から出発するならば「AはAである」こそ唯一の内容である筈である。偶々自我が問題[#「問題」に傍点]であればこそ、[#横組み]”A ist A“ [#横組み終わり]は [#横組み]”Ich bin Ich“ [#横組み終わり]の出発点[#「出発点」に傍点]と見えるのである(それ故 [#横組み]”A ist A“[#横組み終わり] はフィヒテ知識学の唯一の出発ではない)。整合としての整合からは何人も出発する動機[#「動機」に傍点]を得ることが出来ない。整合は立場であった。故に何人も実際の動機に於ては立場から出発しているのではない。ただ問題としての、問題が立場の衣を着けた限りの、立場からのみ出発出来る。このような立場――人々が日常持っている立場概念――に就いてのみ、立場の深浅・広狭・抽象性・具象性等々が語られることが出来る(前を見よ)。事実、理論の整合からの出発は、理論の実質としてよりも寧ろ多少とも立論上の技術として(叙述・方法・体系とは時にこの技術を意味する)、理論のあとから――決して前からではない――加えられた仕上げとして、価値を有つ場合が多い。
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* 問題としての立場、問題[#「問題」に傍点]概念と立場[#「立場」に傍点]概念とのこの混合物は、多くの立場に於て見受けられる。例えば観念論という立場[#「立場」に傍点]――それは実は観念を問題[#「問題」に傍点]にしている理論に外ならない――とか、唯物論という立場[#「立場」に傍点]――それは物質[#「物質」に傍点]を問題にする理論の外の何物でも実はない――とか。処で比較的[#「比較的」に傍点]問題の概念を混えない純粋な立場概念を吾々は絶対主義乃至相対主義[#「絶対主義乃至相対主義」に傍点]に見出した。何となれば之に直接に結び付いた問題は別にないように見える[#「見える」に傍点]から。故に立場の代表的な例として両者が選ばれた(前を見よ)。
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立場を経るか経ないかによって、問題の資格に二つを区別することが出来た。立場を経ない問題、それは突発的問題である。立場を経た問題、それが既成的問題であった。そして前者が問題として、後者を優越する。
立場と問題との関係を更に細かく分析するために、問題が立場を経るか経ないかに依る今の区別を、も一つの他の側から見よう。或る意味の批評[#「批評」に傍点]を人々は、内在的[#「内在的」に傍点]と超越的[#「超越的」に傍点]とに分けるかと思われる。今内在的批評によって発生する問題は常に既成的問題であり、之に反して超越的批評に於て発生する問題は常に突発的であることを、見よう。元来内在と超越との概念上の区別は、或る一定の領野を思い浮べることを条件とする外はない。というのは、或る一定の領野があって、この領野の範囲を脱しない条件の下に活動することが所謂内在的であることなのであり、之を脱して活動することが所謂超越的の謂だからである。処がこの領野はとりも直さず立場に外ならない。事実人々は内在的批評によって理論の整合――それが立場を意味した――を求めることを意味しているであろう。古典的本文の前後の文章、又は同じ著者乃至同じ原本の異った多くの本文の間の、矛盾の芟《さん》除が、所謂内在的批評であるかのように見られているのが事実である。内在的批評は理論の整合――立場――を唯一の媒介とするから、之から発生する問題は既成的でしかないのは、前に述べた処によって必然である。之に対して同様に、超越的批評に於ける問題は常に突発的でなければならないわけである。――さて内在的批評は普通、立場の最も健全な批評であるかのように考えられるかも知れない。立場の不完全は必ず何かの矛盾となって現われるであろうから、それであるから――そう人々は推理する――この矛盾を指摘することが立場の不完全を暴露する最も確実な手続きであるかのように考えられるかも知れない。併し矛盾を含まない整合としての立場が、等しい資格の而も異った他の立場に対して、水掛論を構成し得たことを人々は忘れてはならないのである。それ故この二つの立場に就いて銘々内在的批評を行うている限り、二つの立場の優劣を原理的に決定することは出来ない筈である。かくて事実上、立場の批評なるものは目的を遂げることが出来なくなる。最も成功した内在的批評も要するに自分の頭髪を掴むことによって自分を沼から引き揚げることは出来ないという宿命を有つ。内在的批評が立場[#「立場」に傍点]――整合――の批評を約束する以上は、そうある外はあり得ない。之に反して超越的批評は批評されるべき理論の立場――整合――に対して、この理論にとっては突発的である処の一つの問題[#「問題」に傍点]を課すものである。あくまで問題を標語とするのであって、立場の批評を標語としない処が、その批評の超越的である所以なのである。恰も、或る新数学の発見者が、その数学でしか解けない問題[#「問題」に傍点]を人々に試みたように、超越的批評は、例えば観念論に物質の問題を課し、又或る種の唯物論に精神の問題を課すことが出来る。近世哲学――夫は自我[#「自我」に傍点]乃至意識の問題[#「意識の問題」に傍点]として性格づけられるであろう――は超越的批評によって今、社会の問題[#「社会の問題」に傍点]を課せられているのであるかも知れない。――内在的批評は既成的問題[#「既成的問題」に傍点]を、超越的批評は突発的問題[#「突発的問題」に傍点]を発生せしめると云った。そして今、前者の批評が立場[#「立場」に傍点]を、後者の批評が問題[#「問題」に傍点]を、テーマとすることを吾々は見たのである。然るに吾々はすでに、突発的問題が既成的問題を優越する理由を見ておいた。それ故再び次のことが帰結しなければならない、問題[#「問題」に傍点]は立場[#「立場」に傍点]を優越すると。
問題が立場を優越[#「優越」に傍点]することは、かくて重ねて、確められた。問題が立場に先行[#「先行」に傍点]する所以である。
問題は立場に先行[#「先行」に傍点]する。そうすれば問題[#「問題」に傍点]がどのような条件に従って歴史的に立場[#「立場」に傍点]へ移行[#「移行」に傍点]するかを語る必要があると思う。或る時代の或る理論家が一つの問題を捉えたとしよう。この問題は無論、形而上学者達が好む最も根本的な[#「最も根本的な」に傍点]従って最も普遍的な[#「最も普遍的な」に傍点]問題――夫は例えば実在・宇宙・人生・神・等々の概念であろう――であるとは限らない。彼は例えば生物を、物体を、その問題とすることも出来るであろう。かくてこの場合一般に問題は特殊の限られた[#「特殊の限られた」に傍点]問題であっても差閊えがない性質をもっている。さて彼がこのような特殊[#「特殊」に傍点]の問題を捉える時、それを解決するために、おのずからそれに特有[#「特有」に傍点]な立場をとるであろう。生物の問題を提出すれば生物学的立場が要求され、物体の問題を提出すれば恐らく物理学的と呼ばれてよいような立場が要求される。問題の提出は直ちに問題の解決への道なのであり、この道の自覚がとりも直さずその解決に適わしい立場なのである。かくて一定の[#「一定の」に傍点]問題は一定の[#「一定の」に傍点]立場を要求する。問題の解決が何かの立場を要求することは特に茲に言うまでもないことであるかも知れない、ただ大事なことは、一定の問題がそれに特有な一定の[#「特有な一定の」に傍点]立場を要求する、ということである。処で今立場という概念の性格に就いて注意すべき一つの点がある。立場は、かりにそれが特有な一定の[#「特有な一定の」に傍点]――それは根本的なものには限られなかったから少くとも全般的ではない[#「全般的ではない」に傍点]――立場であるにしても、立場であるからには常に全般的[#「全般的」に傍点]な意味を有たねばならない性質を有つ。特殊[#「特殊」に傍点]な立場も立場である以上は一般[#「一般」に傍点]に通用して好かるべき筈である。立場はそのような性格をもつ概念でないであろうか。かくて立場概念のこのような弁証的性格は特殊的な立場をば常に、普遍的な立場にまで転化せしめるのである。初め立場を特殊な立場であらしめた動機は然るに、問題の特殊性――問題は特殊であることの出来る概念であった――の外にはなかった。故に云うことが出来る、問題[#「問題」に傍点]が立場[#「立場」に傍点]へ移行する時、特殊[#「特殊」に傍点]は常に普遍[#「普遍」に傍点]化せられるのである、と。
問題なるものは元来固定したものではない。というのは問題はその性質上次々の問題を呼び起こすことが出来る。それ故問題はそれ自身の成立に於て他の問題へ運動するという特色を有っている。問題は他の諸問題を展開するものである。それ故特殊の問題であっても――即ちかの形而上学的根本[#「根本」に傍点]問題でないにしても――、枢要な他の諸根本問題を展開する糸口となることの出来る場合はあるかも知れない。この場合であるならば、問題が立場へ移行することによって、
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