傍点]かは、彼を強制し又は彼が模倣しようとする超個人的な社会――但し個人と個人との相互関係と云うようなものではない――からは独立に、彼の個人的自由に任されて好いことである。然るに個人が、何を問題[#「問題」に傍点]とするか、如何なる問題を有つか、ということは、決してそれ程個人的な主観的な放恣に委ねられてはならない。何となれば問題は常に社会的存在としての理論乃至科学(学問)から、又は之に直接関係するものから――例えば説話・世論等々から――課せられて初めて問題となるのであるから。それ故、問題は問いとは異って、それが他の問題に先立って選ばれた客観的な理由を示すことが出来るのでなくてはならない。と云うのは、その問題が例えば単に主観的に切実であり深刻であるからという理由によっては――かかる多少感傷的な理由からは――、その問題を選択する権利は産まれない。問題の解決[#「解決」に傍点]の権利がないというのではない、問題の選択[#「選択」に傍点]の権利が生じないと云うのである。なぜかと云えば何が凡そ人にとって切実であるべく深刻であるべきかこそ、正に一つの問題であり、又問題の選択如何によって初めて決まることなのであるから。それ故、問題の解決ばかりではなく、問題の選択それ自身が理論的[#「理論的」に傍点]――感傷的ではなく――であり、客観的であることが重大な条件なのである。問いに於ては無く、ただ問題に於てのみ重大なこの条件は、とりも直さず問題が社会的[#「社会的」に傍点]――そして社会的とは常に歴史的[#「常に歴史的」に傍点]を意味する――に規定された事物であることを云い表わす。故に人々は今、問題を単に問いとしてではなく、正に問題として理解しておくことが必要なのである。
実際、もし人々が如何なる問題でも問題となし得ると空想するならば、如何なる問いにも問題という資格を与え得ると想像するならば、その人は全く問題の概念を有たないことが其処に証拠立てられているのである。何となれば問題こそは、他の問題に対して、自己の問題としての資格を主張するのに最も熱心ならざるを得ない概念であるのだから。或る時は、生か死かそれが、問題[#「問題」に傍点]なのである、そしてその他のものは問題ではない。問題は主観的に自由であるのではない。そしてこのような問題の概念なくして問題意識なくして、理論し得ると思う者は又、理論乃至研究の概念の欠乏を暴露しているものに外ならない。――問題なき理論は恐らく単なる思惟又は思考ででもあろう。併しそこには思想はない、在るものはただ理論らしい姿を装う多くの没理論でしかないであろう。問題なき理論、社会的歴史的性格[#「社会的歴史的性格」に傍点]をもたない理論、そのような理論が如何に無意味であるかを痛感する人々は、問題の概念が何故かくなければならないかを知るであろう。
問題は理論(乃至科学等々)に関してのみ語られる。そして後者が歴史的社会的存在であると同じく、前者は歴史的社会的存在であることが忘れられてはならない。
問題の歴史社会的構造を系統的に――そして理論[#「理論」に傍点]へ関係づけて――分析することは最も重大で必要な仕事であるように見える。今はその断片として問題の概念を立場[#「立場」に傍点]の概念に較べた限り、分析しようとする。
問題が歴史社会的存在であるからと云って、問題が常に歴史的に(又社会的に)与え[#「与え」に傍点]られているということには必ずしもならない。というのは、それが常に既成的[#「既成的」に傍点]のものであって個人又は何かの集団が其を見出[#「見出」に傍点]し又は発見[#「発見」に傍点]する余地がない、ということになるのではない。なる程或る人々にとっては歴史的(又社会的)とは既成的のことであるように見えるかも知れない。既成的ならぬもの――突発的[#「突発的」に傍点]なるもの――から既成的なるものへの作用は、この意味に於て、非歴史的と考えられ勝ちなのである。かかる突発的なるものは歴史的連続を破るかのように見えるから。処が一般に歴史家は皮肉にも、過去のそのような非歴史的事件を、恰も最も著しい歴史性をもつものとして好んで取り扱いはしないか。所謂歴史的連続は、恐らくこのような突発性によって破られると考えられるような、そのような単線的連続ではないのであろう。故に所謂歴史的連続は、従って又既成性は、決してそれだけで歴史的なるものを支配することは出来ない。故に今問題が歴史的(社会的)であるというのは、問題が歴史的に与えられた既成的[#「既成的」に傍点]なものでなければならないというのでは少しもない。そうでないどころではなく、寧ろ問題らしい問題は、常に新たに――併し矢張り歴史的に――見出され発見されるものなのである。無論既成的問題はないと云うのではない、ただ之を外にして、更に重大な問題らしい問題・発見されるべき新しい問題・がある、と云うのである。既成的問題をどのように発展させ変容させ――甚だしきに至っては捏ね回し――て見た処で、その性質上から云って、この発見されるべき新しい問題は出て来ない、既成的問題[#「既成的問題」に傍点]に対しては、この新しい問題は突発的問題[#「突発的問題」に傍点]と見え又見えるべきであろう。既成的問題は歴史的(社会的)に与えられ[#「与えられ」に傍点]、之に反して突発的問題は与えられない[#「与えられない」に傍点]所以である。問題をその資格に於て突発的と既成的とに一応区別することが必要である。
例を或る古典的哲学に採ろう。之は後の学界に多くの問題を提供する、人々は之によって「問題を教えられる」ことが出来る。この時、たとい人々が自分で之に於て問題を見出すと考えたにしろ、結局発見された問題は、この限られた一定の古典が有っている問題の領域の外へは出ない。従ってこの発見は結局新しい問題の発見ではなくして与え[#「与え」に傍点]られた問題の発見でしかない。かかる問題の系列が恰も一群の既成的問題[#「既成的問題」に傍点]なのである。さて処がこの哲学が有力であればある程、それから惹き出される問題は多数であり、その範囲は多方面であるであろう。そうしてその結果、この哲学が一切[#「一切」に傍点]の重要な問題を提供し尽すかのような錯覚を人々が起こすであろうことは、人々の展望が余り広く又高くないのが普通である限り、自然である。このような錯覚によって、この系列に属さない新しい問題が、それが正に既成的問題でないというだけの理由から、即ちそれが自分に対して突発的であるというだけの理由から、偶然な非本格的な末梢的な、時には廃頽的でさえある問題であるかに見えることは、必然である。歴史的伝統の道を外れたものとしての外道として、既成の権威に肖《あや》からぬものである限り権威なきものとして、そのような問題は見做され易いのが事実である。然るに実は、問題は問題としての性質上、それが既成的である時こそ却って、その概念の堕落を意味することさえあるべきなのである。何となれば提出され終った問題は或る意味に於て既に解決の約束済みであるのであって、然るに問題が問題である点はそれが正に提出されようとする発生期に存するのだからである。蓋し、問題は歴史社会的存在であった。そこで社会から抽象された単なる歴史の、既成性の単線上に於ては、ただ既知の又は約束済みの問題しか発生しないわけである。之に反して、歴史から抽象された単なる社会の、統一的な横断面は、云わばこの既成線に対して垂直に交っている。歴史の既成性は、自分自身の単線的統一を外にして、なお社会のこの横断面に於て別な統一に織り込まれているのである。単なる歴史の単線にとって突発的な問題はとりも直さず、却ってこの横断面に於て統一されており、そしてその面の随処から発見され発明されて提出されたものに外ならない。社会的横断面によって統一された諸問題であるからには――時代の問題であるからには――所謂突発的問題が歴史の単線的統一にぞくさないからと云って、それだけ夫が歴史的でなくて偶然的であるのではない。例えば或る時代――社会的横断面――に於て哲学が自然科学から問題を突発的に提出され、又他の時代に於て経済学から突発的問題を突きつけられるということは、歴史の単線の延長上に於て理解し得ることではない。歴史は云わば単線ではなくして長短無数の線の束であり、その各線の発生期を見るためには少くとも随処に横断面を作って見ることが必要であるであろう。歴史を発生しつつある歴史として、即ち歴史を歴史らしい歴史として見る時、歴史は常に歴史社会[#「歴史社会」に傍点]なのである。問題はそしてかかる歴史社会に於ける存在であった。突発的問題が既成的問題に較べて、優越なる意味に於て問題の名に値いする所以である。
如何なる問題も、既成的問題であっても、又歴史上の宿題であっても、展化する。同じ問題であっても問題提出の仕方は展化する。併し既成的問題にあっては、その展化の仕方それ自身が新しく展化することは出来ない。その展化の軌道――展化という過程ではない――そのものは伝統的に固定されているのである。固定した軌道はそれが属すべき何かの位置が既知であるに相違ない、それ故既成的問題は既成の科学的分科[#「分科」に傍点]のどれかにぞくする問題として位置づけられることが出来る。哲学の問題は何々であり、法律学の問題は何々であり、言語学の問題は何々である等々、分科的に独立な問題とそれはなることが出来るわけである。恰もこのような科学的儀礼に対して突発的問題は不信と疑惑とを懐くのである。
さて、突発的問題[#「突発的問題」に傍点]と既成的問題[#「既成的問題」に傍点]とのこの区別――そして前者は後者を優越する――を用いて、問題[#「問題」に傍点]と立場[#「立場」に傍点]との関係を決定することが出来る*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 今仮にタルドの思想を借りるならば、問題――問題の解決もそうであるが――は発明[#「発明」に傍点]され次で模倣[#「模倣」に傍点]される。前の場合が突発的問題に、後の場合が既成的問題に、相当するであろう。但し吾々にとっては、問題が単に個人的に、非歴史的に発明されるのであっては、元来それは、問題ではあり得なかった筈である。問題の発見は歴史社会的必然によって規定されるべきであった(G. Tarde, Les lois de l'imitation(1921)p. XIII 参照)。
[#ここで字下げ終わり]
既成的問題と突発的問題・伝統的な問題と独創的な問題、との区別を吾々は、立場を経た問題[#「立場を経た問題」に傍点]と立場を経ない問題[#「立場を経ない問題」に傍点]との区別として与えることが出来る。歴史の上に於て、或る一定の立場に立つ理論――何となればどのような理論も凡て何かの立場に立ち又はやがて立つのである――を通過して初めて発生する諸問題は、まず初めに歴史社会的に或る理論が存在し、この理論に基いて、例えばそれの解釈又は理解として、歴史的に発生すべく初めて動機づけられたものに外ならない。尤も与えられた立場に立った既成のこの理論も、その発生期に於ては或る一つの問題によって動機づけられたのであり、そしてこの動機が成り立った当時にあっては、その問題も独創的に見出されたのではあったであろう、けれども今云った諸問題は、この初め独創的であった一つの問題が既に一定の理論を産み、その理論的整合――それが立場であった――を経て、遂に与えられた問題となった暁に、之から惹き出された諸問題であるのである。「先天的総合判断は如何にして可能なりや」という問題が、仮にカントの独創的な問題であったとすれば、この問題[#「問題」に傍点]は例えば批判主義と呼ばれる立場[#「立場」に傍点]を経て、一つの与えられたる問題となり(「カントへ帰れ」)、この問題から多くのカント学派的問題が惹き出される。対象の認識と認識の対象との結び付け、価値と作用との関係等
前へ
次へ
全27ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング