自明なことではないから、それを決定する独立な標準が他になくてはならぬ。処がこの標準というのが人々が想像するように立場――それは整合であるべきであった――なのではない。そこには立場以外の概念が必要であることを人々は認めないわけには行かぬであろう(以上のことは深刻・浅薄、高貴・卑賤、等々に就いてその通りに通用する)。立場以外のこの概念――例えば如何いうことが具体的(又は具体的立場)であり何が抽象的(又抽象的立場)であるかを決めるものこそ之である――は何であるか。之を決めることが吾々の目指す目的なのであるが、そこに行き着くための用意として前に一つの主張を掲げておいた。曰く、等しい資格で而も異った立場[#「等しい資格で而も異った立場」に傍点]があるのであると。但しこの場合立場が正に、立場としての立場――整合――であることは、今述べた処である。さてそのような場合の立場は何処に在るか。その代表的な一例を立場としての――他のものとしてのではない――絶対主義[#「絶対主義」に傍点]と相対主義[#「相対主義」に傍点]との対立に見出す*。
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* あり得べき多くの立場の内、何故特に、絶対主義と相対主義とを代表的なものとして選んだかは既に意味のないことではない。その意味を後に明らかにする。
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 絶対主義的立場(整合)と相対主義的立場(整合)とはその根柢的な論争にも拘らず、勝敗を決定することが遂に原理的に不可能である。吾々が独善的であるかそれとも又適宜の点に於て妥協的でない限り、之が際限なき水掛論に陥ることを、吾々は常に経験している。論争解決の事実上の困難[#「事実上の困難」に傍点]は、茲にその原理上の不可能[#「原理上の不可能」に傍点]にまで転化されるのである。それでは本当に[#「本当に」に傍点]勝敗の決定が原理上不可能となる場合を承認しなければならないのであるか。併し又そうすることはとりも直さず、相対主義という一つの立場[#「立場」に傍点]の主張となるように見える。そして再び絶対主義という立場[#「立場」に傍点]との水掛論を始めなければならないように見える。――併し断定を急いではならない、茲には恐らく何かの罠がある*。
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* 理論の罠・トリックは、意識的又無意識的に犯される処の、隠されたる、論理学には現われない、虚偽(性格的虚偽と呼ぼう)の一つである。
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 人々は論争を解決するために、二つの理論が夫々基くと考えられた二つの立場へ立ち還って見るのである、論争を立場の勝敗に還元[#「還元」に傍点]して見たのである。そうすることが恐らく理論の純化[#「純化」に傍点]と見えたからであろう。処が、立場への還元は、仮にそれが理論の純化であったとしても、立場の代表的な場合――相対主義と絶対主義――に於ては、少くとも論争の解決とは積極的に正反対なものを招くに過ぎなかった。それ故今、理論を立場へ還元すればする程、立場を立場として純化すればする程、却って論争の解決は原理的に不可能であることが愈々益々示されて来る。立場を立場として押しつめて行けば行く程、理論の整合を愈々益々完全無欠にすればする程、そうなのである。さて立場を完全無欠とすることによって、論争を最も根本的に解決し得るものと思い、又そうしようと欲すること――人々は事実そうであったろう――は、立場を、立場としての立場を、即ち立場の整合[#「整合」に傍点]を、終局的[#「終局的」に傍点]なものと決めてかかることを意味する。立場の概念にこのような終局的価値を与える処から、かの水掛論が成立したのであった。併し之は一つの理論的な――必ずしも論理[#「論理」に傍点]的ではない――罠に外ならない、それはこうである。
 人が或る立場――例えば絶対主義――を採るに際して、彼がその根拠として、基礎[#「基礎」に傍点]として示す処の、自己の立場の完全無欠の整合なるものは、実は[#「実は」に傍点]、彼をしてこの立場を採らしめた真の動機[#「動機」に傍点]ではなかったのである。立場の整合は必要な条件としておかなければならないが、その上で、二つの立場――例えば絶対主義と相対主義――の何れを選ぶかを決定するに足る現実的な動機は、実は[#「実は」に傍点]、単に立場の整合であったのではなくして――整合としてならば二つの立場は等しい資格を有つ筈であった――、他の何物かであったのである。立場としての立場、整合――彼はそれを理論の基礎[#「基礎」に傍点]として示した――が終局的[#「終局的」に傍点]なるものであったのではなくして、実は[#「実は」に傍点]、何か立場以外のものが、従って今のことから、それ以前に[#「それ以前に」に傍点]、立場の選択を与えたのであった。之が彼の理論の正直な動機[#「動機」に傍点]であったのである。もし彼がこの立場以前のもの[#「立場以前のもの」に傍点](かの所謂立場なき立場のことではない)が何であったかを告白しないならば、そして依然として自己の立場の整合を証明することにのみ相手の注意を惹こうと努力する限り、人々は彼との話題を打ち切る外はないであろう。立場はそれ故、人々が往々信じているように見える処とは異って、理論の成立に於ける終局的なるものではない[#「ない」に傍点]。立場は理論の論理的根拠[#「論理的根拠」に傍点]ではあるであろう、それは理論成立の理論的[#「理論的」に傍点](論理的ではない)動機[#「動機」に傍点]ではない*。
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* 根拠と動機とは全く別である。例えば吾々は自己を弁解するために(動機[#「動機」に傍点])、有利な口実(根拠[#「根拠」に傍点])を捜すのである。
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 或る理論を立場へ還元[#「還元」に傍点]し得るからと云って、直ぐ様立場が理論の優越[#「優越」に傍点]なる意味に於ける始発点であると想像されることは許されない*。たとい人々が或る立場から出発し、又はそう信じたとしても、夫は、単にその立場が立場として攻撃の余地のない完全な整合を有っていたからではなく、実は寧ろ立場以前の或る他のもの[#「或る他のもの」に傍点]に人々が前以て関心していたからこそ、初めてその立場が選ばれたのであるに外ならない。――吾々はこの単純な一つの事実上の関係を明らかに握っておくことが必要であったと思う。そして立場以前のこの或るもの[#「或るもの」に傍点]として、吾々は恰も「問題」の概念を注意するのである。
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* 事物の還元性と優越性とは別である。凡ての人間は国民に還元[#「還元」に傍点]されるからと云って、国民であることが例えば彼の道徳の優越[#「優越」に傍点]なる意味に於ける勝義の第一の出発・原理――性格――であることにはならないように。
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 一つの立場は単に整合であるが故に採用されているのではない。何となれば吾々は既に、夫々整合でありながら而も相互に矛盾さえする二つの異った立場の代表的な一例を見ておいたから。そうではなくして或る一定の問題[#「問題」に傍点]を解き又は提出せんがために、そのような動機に於て、最も適切な立場が採用されているというのが、正直な事実なのである。故に理論をして理論たらしめる終局的[#「終局的」に傍点]なるもの――一定の警戒の下にこの言葉を使うとして――、云い換えれば理論をして理論たらしめる性格的なるもの、即ち論理的基礎[#「論理的基礎」に傍点]・根拠[#「根拠」に傍点]ではなくして性格的動機[#「性格的動機」に傍点]、之は立場の整合[#「立場の整合」に傍点]ではなくして問題の把握[#「問題の把握」に傍点]に存する。吾々が理論の体裁を具えた一切の理論に就いて――理論になっていない理論は別である――、その性格を決定するためには(例えば此理論は真であり又は虚偽であり、彼の理論は卓越し又は愚劣である等々)、その理論を還元する処の――従ってその理論の性格を破壊して了う処の――所謂立場を、終局的な標準とすべきではない。そうではなくして正に、その理論をその立場にまで動機づけた処の、問題が、何であったかを、第一義に最勝義に問うべきなのである。問題[#「問題」に傍点]は立場[#「立場」に傍点]に先行[#「先行」に傍点]し、之を優越する。
 もし仮に理論の性格がそれの有つ問題[#「問題」に傍点]に於て理解される代りに、それが立つと考えられる立場[#「立場」に傍点]に於て理解されたならば、それから結果する代表的なるものは理論の原理的な水掛論でしかあり得ない。
 吾々は立場と問題との二つの概念の関係をより明らかにする必要がある。

 どのような理論も形式上は[#「形式上は」に傍点]――還元性に於ては(前を見よ)――問われ[#「問われ」に傍点]たるものに対する答え[#「答え」に傍点]として展開する。形式上では問いが先立たない理論はないのが事実である。それ故理論の形式的[#「形式的」に傍点]構造が「問いの構造」と呼ばれることはその限り正しい。恰も問題[#「問題」に傍点]はこの問いに結び付いて理解されそうである。問いの構造とは、問うことが如何にしてなり立つか、即ち吾々が何に基いて問いを発する可能性と必然性とを有つか、という問題であるが、この問題は思うに、問うことそれ自身が吾々人間的存在の意識の根本規定であるから、と云って答えられるであろう。茲にあるものは問いという出発[#「出発」に傍点]の問題である。というのは、恰も知ることが欠くべからざる出発であり(何となれば知ることを予想せずしては知らないと云うことすら出来ないから)、又自我の存在が欠くべからざる出発である(何となれば自我が存在しなければそれが存在しないと云う主体が第一失われるから)、と考えられると同様に、問いは人間的存在の意識に於ける恰もそのような出発[#「出発」に傍点]であり、そして又そのような絶対的出発[#「絶対的出発」に傍点]である、というのである。或いはデカルト的・或いはフィヒテ的・体系[#「体系」に傍点]がかかる絶対的出発から出発したように、問いは或る一つの体系の出発をなすのであり、それが体系[#「体系」に傍点]の出発である点から必然に或る意味に於ける絶対的出発である、というのである(体系と絶対性との関係は後を見よ)。一種の存在論としての体系がそれから出発しなければならないと考えられるこの問い[#「問い」に傍点]なるものは(又より以上形式的な場合、論理学に於て、判断を呼び起こすもの又は肯定と否定との中間領域をなすものと考えられるかの問いも亦)、併しながら、充分な意味に於て吾々の今謂う所の問題[#「問題」に傍点]であるのではない。
 問いという言葉によって理解されるものは、云うまでもなく、それが何かの理論[#「理論」に傍点]のテーマとか出発とかを意味しなければならない必要はない。ましてそれが何かの科学[#「科学」に傍点](学問[#「学問」に傍点])に於ける問いを意味せねばならぬ理由はない(蓋し理論とは、比較的固定した社会的存在を概して意味する処の科学乃至学問の概念をば、より流動的・実践的に云い表わす概念である)。問いは人間の生活に於て比較的に断片的な即興的な態度の、又その態度の所産の、名である。単なる問いは従ってこの意味に於て、たとい形式社会学風に云って社会的であろうとも、矢張り個人的[#「個人的」に傍点]であると云う外はない。処が吾々の謂う所の問題[#「問題」に傍点]は常に社会的存在としての理論乃至科学(学問)に関するものとしてのみ理解されなければならないのである。問い[#「問い」に傍点]は個人的であって一向差閊えがない、之に反して問題は常に社会的であることを必要とする。社会人である個人が同じく社会人としての他人に又は自分に問うことは、彼個人の自由である、如何なることを問う[#「問う」に
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