性と反対な専門性に外ならない。通俗と専門とは反対概念でありながら、両者の間には単に限界がないばかりではなく、両者は同一の規範を原理としているのである。通俗性は実際不純なる混淆した専門性に外ならないのが事実であるであろう。それであればこそ学問的・専門的な立場に於ては通俗性の概念は消え失せて了わなければならないのである。通俗的学問という概念は Contradictio in adjecto として響くであろう。之に反して日常性は専門家と素人との区別を予想しない。人が専門家であるか素人であるかによって一定の概念の日常性が変化するのではない。であるから日常性の理想――規範――は日常性と反対な或るものにあるのではなくして、自分みずからの内にあるのでなければならない。この規範が或る意味に於て専門性であり、学的であることに存在するならば、日常性はみずからを失うことなく、自らを強度にしながら、その専門性・学問性を得ることが出来る筈である。茲に例えば日常的学問という概念が成りたち得るのである。――さて今常識的[#「常識的」に傍点]と呼んだのは通俗的のことではなくして正に、日常的のことである。それ故今や、性格的概念は日常的概念[#「日常的概念」に傍点]と呼ばれることが出来ると云うのである。
性格的概念はただ、日常的であるという意味に於てのみ、常識的概念である。之に反して非性格的概念はただ日常的でないという意味に於てのみ、常識的概念でないのである。之が通俗的概念であるか専門的概念であるかを私は知らない。
性格的概念――常識的概念――によって性格的理解[#「性格的理解」に傍点]が与えられる。非性格的概念によって与えられる理解は非性格的理解[#「非性格的理解」に傍点]でなければならない。或る人間の性格を理解する場合の如きは恰も前者であり、数学的証明を理解する場合の如きものがとりも直さず後者であるのである。吾々が日常出逢う多くの事物は、実際に於ては常に性格的に理解されなければならぬものであるであろう。今之を学問的・専門的な手続きという口実の下に、非性格的理解によって置き換えようとするならば、そこに見られるものは学問の非実際さや憐むべき無力であろう、科学は迂遠なる知識となる。併しこのような場合の学問は実は学問ではない。何となれば性格的理解はただ性格的理解としてのみ、非性格的理解となることなくして、それ自身の学問性・専門性を有つ筈であったから。理解は性格的である時と非性格的である時との区別をもつ。事実人々はこの二つの理解の区別を日常知っているであろう。例えば数学的に秀でた頭脳が必ずしも歴史的感覚に於て優れず、日常の事物を把握するに明敏な頭脳は往々にして論理的に無能である場合が見出されるのは少なくない事実である。
理解の形態の相異は、その理解が目的とする理解の理想状態の相異に外ならない、というのは二つの理解が夫々の理念を異にすればこそ両者は相異るわけである。理解の規範――カント的名辞を用いてよいならばアプリオリ――が、性格概念を規準として二つに分たれる。性格的真理と非性格的真理[#「性格的真理と非性格的真理」に傍点]。数学乃至自然科学の理想とする真理――学問性[#「学問性」に傍点]――は後者であり、之に反して歴史科学乃至社会科学――本来はそして哲学も亦――の理想とする夫れは前者であるであろう。性格的真理を追求する学問の学問性――性格的学問性――に於ては、常に事物の解釈[#「解釈」に傍点]が支配的であることがその特色となる*。蓋し事物の解釈はただ性格によって又性格に於てのみ初めて成り立つことが出来るであろうから。処で性格的なる解釈による学問性は常に主義[#「主義」に傍点]となって現われなければならない。かくて性格的真理は常に主義として現われる。人々は不幸にしてこの消息を非科学的にも次のような言葉を以て云い表わそうと欲する。学問と体験とは一致しなければならない、学問は人格の修養に役立つべきである、等々。恐らく数学者は彼の体験で方程式を解き得なければならず、又彼は方程式を解くことによって人格の向上を計り得なければならぬのであろう。
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* かくて例えばリッケルトに於て、歴史科学は価値への関係づけを以て叙述の方法としなければならないと考えられる。一般に、自然科学と歴史科学との限界は実は学問的真理の二つの形態の性格的区別に帰せられるべきである。
[#ここで字下げ終わり]
性格的概念は、性格的理解・性格的真理・性格的学問性の概念を伴う。之に対するものは夫々の非性格的なるものとして区別せられる。性格概念を指摘することによって性格的なるものと非性格的なるものとを区別する時、概念・理解・真理・学問性・等々の夫々の概念が、より明らかに理論出来ないであろうか。もし出来るとするならば、それは性格概念なるものがこの種類の理論に於て性格的[#「性格的」に傍点]に機能し得る証拠であるであろう。
最後に注意すべきは、形式論理学[#「形式論理学」に傍点]――それは非性格的である――をば、それが形式性を持つにしても持たないにしても、性格的なるものにまで拡張しなければならない、ということが必然的に要求されることである。何となれば吾々は已に概念[#「概念」に傍点]を二つの種類に区別することによって、性格的概念――それは従来の形式論理学に於ける概念とは異る――を有ち得たからである。そして之は又判断[#「判断」に傍点]乃至推論[#「推論」に傍点]に就いてもそのまま行われるであろう。理解――性格的理解を他から吾々は区別した――とは形式論理学に於ける判断乃至推論に相当するであろうから。真理の概念も亦性格的なるものにまで及ぼされなければならない。恐らく吾々は性格的な論理法則を必要とするであろう。処が恰も吾々にとって最も興味あるものは形式論理学に於ける虚偽論でなければならない。と云うのは虚偽は形式論理学に於ても必ずしも非性格的ではないであろう。形式論理学に於ける真理の法則に較べて、その云わば虚偽の法則が、如何に切実であり有用であるかを人々は注意しないであろうか。虚偽そのものが真理に較べてより根柢的な動機を有っているからである、と考えられる、誤り得ることは人間的であるから、と考えられる。虚偽は真理よりも性格的であり易い性質をもっているのである。そこで形式論理学が一般に非性格的であるにも拘らず、虚偽論だけは性格的虚偽を取り扱い得たわけである。非性格的論理学は虚偽論に於て性格的なる論理学への出口を示しつつあるであろう。吾々は性格的論理学[#「性格的論理学」に傍点]を要求する権利を有つかのように思われる。
なお、知識学に於て、認識論に於て、又科学論に於て性格の概念は果すべき多くの理論的使命を担っているかのように思われる。
性格概念は理論一般にとって性格的な使命を有つ。
[#改段]
[#ここから大見出し]
「問題」に関する理論
――主に立場[#「立場」に傍点]概念の批判として必要なる分析に限る――
[#ここで大見出し終わり]
理論[#「理論」に傍点]は一般に、或る意味に於て、常に論争と相伴う性質を有っている。特に、生活に対して日常的[#「日常的」に傍点]な理論は、殆んど協調し難く見えるまでに、正面からの反対に出会うことが屡々であろう*。茲に於ては、理論の他の場合に於てとは異って、略々一定した予知し得べき軌道に於て反対が惹き起こされるとは限らない。却って既知の・既成の[#「既成の」に傍点]・軌道から見れば、全く思いも及ばないように見える方向から、反対が突発するのが寧ろ普通である。而もかかる突発的[#「突発的」に傍点]な方向が出発する起点は必ずしも直ぐ様突き止め得られるとは限らないから、当惑した論争は反対と反駁を繰り返している内に、その道筋が乱れ、理論は効果ある進展を止め、かくて論争は絶望的に旋回し始めるであろう。そこで云わば二つの力が衝突することによって起こったこの旋回運動を簡潔に解きほごす為めには、この運動を二つの相対的な分に分解し、そうすることによって、夫々の分をして相反するこの二つの理論を代理せしめる必要があるのである。そうすることによって初めてこの二つの理論の位置関係を、一つのものの他のものに対する態度を、決定することが出来る。かくしてのみ、前に突発的と見えた方向が基く処のかの起点は、初めて突き止められるのである。理論に於けるこの分を、人々は立場[#「立場」に傍点]と呼んでいる。
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* 理論は一定の視点に従って日常的な理論とそうではない理論とに区別される。夫々のものの一例として、法律学の理論と物理学の理論を挙げることが出来るであろう。日常的理論に就いてのみ今吾々は語ろうと思う。
[#ここで字下げ終わり]
解き難く見えた理論の葛藤を、何か恐らく二つの立場に分解することによって、能く明快に解くことが出来ると人々は考える。多くの論争は立場の相違[#「立場の相違」に傍点]に還元[#「還元」に傍点]されることによって、一先ず片づけられるように見える。というのは、云わば論争の偶然な歩哨戦は、立場の決戦によって結末をつけられることとなるのである。論争をこのようにその主力にまで転化し得るには無論、特に優れて有力な理論的能力を必要とするであろう、この転化が成功した時、吾々はこの理論的能力の鋭さを賞讃しなければならない。併し立場と立場のこの「論理的決闘」に於て、勝敗を決することが、原理的に常に可能であるかどうか、それが今の吾々の疑問である。
一つの立場は、立場としての立場[#「立場としての立場」に傍点]は、もし今仮に立場としての資格を等しくする他の一つの立場があるとすれば、之に対しては勝敗を決することが原理的に不可能であるであろう。そしてそのような、等しい資格で而も異った立場[#「等しい資格で而も異った立場」に傍点]が、実際あるのである。
併しそれより先に、立場とは何か、又立場としての立場とは何を意味するか、人はそう問うに違いない。吾々はそれに答える。人々は立場を様々に形容する、高い立場・低い立場、深い立場・浅い立場、広い立場・狭い立場、具体的立場・抽象的立場、等々。処が例えば麗わしい立場・善なる立場、等々は稍々正常な言葉ではないであろう。立場はそれ故前に挙げた諸規定(又はそれに類する)によってのみ形容されるべき概念であるに違いない。そこで人間の論理はこの時、高さ低さ、深さ浅さ、広さ狭さ、具体的抽象的、等々そのもの[#「そのもの」に傍点]を以て、立場の概念そのものと等値することが出来るのである。人々が普通持っている立場の概念は恐らく之ではないか。処が高さや低さは、立場の規定には限られない、高き霊・低き霊という言葉は、立場の場合と等しい資格を以て――それ以下の資格を持つ意味に於てでもなくそれ以上ででもなく――語られる(深さ浅さ、広さ狭さ、等々に就いても亦同じ)。そうすれば、今云った立場の概念はまだ科学的に(理論的に)洗練されないという意味に於て、単なる立場[#「単なる立場」に傍点]であったであろう。之に反して、立場らしい立場にまで洗練され、科学的(理論的)に行使し得るように規定されたる立場概念、それが立場としての立場[#「立場としての立場」に傍点]の意味である。それで何が、このような意味に於ける立場としての立場であるのか。吾々はそれを立場の整合[#「整合」に傍点]――Konsequenz――に於て見出す。理論の内部に於ける――外部との関係は一応何でもよい――首尾一貫、矛盾からの従って攻撃からの自由、理論のこのような何か形式的なるもの、之が人々と吾々とに科学的に役立つ立場の概念、立場としての立場[#「立場としての立場」に傍点]の概念なのである。具体的な立場に立たねばならない、某々の立場はまだ抽象的でしかない、人々は好くそのような言葉を口にする。併し何が抽象的であり何が具体的であるかは、想像されている程
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