歴史的運動はそれ故単に個人[#「個人」に傍点]の歴史的運動に外ならず、又そうなければならぬことが帰結する。この歴史的運動に寄与するものが自己の、実は個人の、性格であるのである。個人の性格はそれ故一般に、前に述べた通り――事物の夫れと同じく――時代の歴史的運動に終局的に帰着し、或いはしなければならない。事実、個人が自覚する自己の行動の意味は必ずしもそれの歴史的意味とは一致しない。之を一致せしめることによってのみ彼は自己の性格を正当に自覚することが出来るのである。
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* 所謂意志の自由は、人々が普通想像する処とは異って、時代の歴史的運動からの制限を脱却することを意味するのではない。意志の自由が道徳的である以上は――形而上学的自由は吾々の関わる処ではない――実践的でなければならず、それは歴史的運動に加わることに外ならないが、恰もこの歴史的運動――それは歴史的部分としての個人の歴史的運動である――が運動であるためには、即ち運動するためには、時代の全体的な歴史的運動によって終局に於て制約されることが必要である。この制約によって初めて個人の歴史的運動は可能であり、従って又初めて道徳的な自由意志の内容ある概念が成り立つことをえる。
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時代の歴史的運動は事物の又人々(個人)の性格を規定する。事物の性格と人々の性格とが相関的である所以が之である。性格の把握の正誤はただ、歴史的運動を標準として、この規範に従って、のみ与えられるであろう。
私は問題を進めよう。時代の歴史的運動、それに寄与する動力因子として時代の又事物の性格が取り出されるのであるが、時代のこの歴史的運動を、その実際の歩みを、吾々は如何にして見出すか。時代の歴史的運動こそ事物の性格を決定する規範であったが、この規範は如何にして見出されるか。時代は何へ向って動きつつあるか、何が時代に於て歴史的・必然的に支配的であろうとしているか、時代の性格は何か、この問いに対して吾々は何を根拠として答えることが出来るか。――そこには社会[#「社会」に傍点]がある。
時代の性格は――時代の歴史的運動は――社会[#「社会」に傍点]現象を地盤として実践的[#「実践的」に傍点]に把握出来る。それは個人的な思弁や隠遁的な思索や又地方的な眼界を以てしては、遂に把握することを許されないであろう*。且又それは瞑想や空想や又感傷的な理想を以てしても通達出来ないであろう。ただ社会的な関心に従いそして実践的な精神に於てのみ、時代の性格は感受し得られる。人々はかかる感受の能力を歴史的感覚[#「歴史的感覚」に傍点]と名づけるであろう。但し歴史的感覚とは、例えば歴史学的統一体としての所謂歴史に対する愛着でもなく、又神学的宇宙論と結び付いた世界の終局目的の信仰でもなくして正に、事物の歴史的運動の正常なる把握の能力であり、そして、ただ実践的社会的関心によってのみその機能を把握することが出来るような、そのような感覚であるのである。時代の性格は歴史的感覚によって――この正常なる実践的・社会的関心に於て――のみ把握出来る。時代の歴史的運動の動力と方向との必然性――それは社会に於て社会現象として展開せられる――を見出し見抜くものこそ歴史的感覚なのである。
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* 地方的眼界の下に立つために性格を把握し誤った虚偽は Provincialism――地方的錯誤――と呼ばれて好いであろう。之は時代錯誤に相関的である。
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併し吾々は最後の依り処を歴史的感覚の概念に託するからと云って、何か神秘的な能力に助けを求めているのではない。元来歴史的感覚は個人の性格にぞくする外はないが、個人の性格それ自身が時代の性格によって支配されており又されなければならなかった。そうすればこの能力は時代の歴史的運動それ自身によって必然にせられている筈である。というのは、個人が時代の歴史的運動――その内に個人は事実生活しているのである――に触れる時、即ち之と実践的[#「実践的」に傍点]に接触する時、忽ち必然にこの能力が機能しなければならないのである。――その成立の故郷は知られている、それは神秘ではない。事実、歴史的感覚とは正常なる・実践的なる・社会的関心以外の何ものでもない。
凡そ性格概念は、歴史的運動の概念へ関係づけられて初めて理解出来るということが、今や明らかとなった。要素的な意味に於ける歴史的運動は、従って又それを全体として展開して見せる社会は、例えば政治的[#「政治的」に傍点]動物として性格づけられる人間にとって、代表的な規定であるであろう。そして性格概念は恰も人間的な概念に外ならなかった――前を見よ。性格が実践的[#「実践的」に傍点]であるのはただこのような意味に於てであり、それが通路[#「通路」に傍点]を用意し方法[#「方法」に傍点]的であるというのも従って亦この意味に於てである。性格とはそれ故最後に、歴史的運動の動力因子として働くものの謂である。性格は優れたる意味に於て歴史的である。それが人間的[#「人間的」に傍点]であった所以である。
日常的な具象的事物――そうではない事物に就いては知らない――に就いて、その理論[#「理論」に傍点]――それはこの事物の一つの歴史的運動である――は、それであるから性格[#「性格」に傍点]によって制約せられていなければならない。性格概念はここに一つの理論的使命[#「理論的使命」に傍点]を持っているのである。処が吾々が理論を論ずる今のこの理論――それは理論という日常的な具象的事象に就いての理論である――に於て性格として機能するものが、とりも直さず又性格概念[#「性格概念」に傍点]であるのである。云い換えるならば、吾々が性格概念[#「性格概念」に傍点]を取り出すことによって、理論一般に関する理解を運動せしめることが出来ると云うのである。茲に性格概念の理論的使命の第二の場合が横たわるであろう。
今まで日常的な具象的事物をそうでない事物から区別して取り扱って来たことを吾々は思い起こそう。日常具象的でない事物を吾々は、学問の対象としてのみ存在すると考え得られる事物であると云った。この二つの種類の事物の区別は、恰も之までに規定した性格概念によって与えられる。性格的事物[#「性格的事物」に傍点]と非性格的事物[#「非性格的事物」に傍点]。前者に就いては性格[#「性格」に傍点]が語られ後者に於ては之に反して恐らく本質[#「本質」に傍点]が語られるであろう(本質と性格との区別は前を見よ)。性格的事物に就いては人々は性格的概念[#「性格的概念」に傍点]を有つことが出来、之に反して非性格的事物は非性格的概念をもつ。性格的概念とは性格的事物の把握・理解としての一つの働き――運動――の動力因子でなければならないが、性格的事物自身が性格的である故に通路を用意しているから、この事物はこの把握・理解という通路に於て運動せしめられることによって、少しも自からの事物としての性格を失わないであろう。即ち性格的事物[#「事物」に傍点]は性格的概念[#「概念」に傍点]として理解せられることによって少しも事物としての性格を失わない筈である。それ故性格的概念は却って概念としての性格をもたない。ただこのような概念[#「概念」に傍点]に就いてのみ、ヘーゲルに倣って、事実的なるものは概念的である、と云われることが出来るであろう。吾々が日常生活に於て使用している概念――吾々の行動は常に或る意味での概念に依って行われる――は恰もこの種類の概念に外ならない。非性格的概念は之に反して事物とは異った性格――概念としての性格――を有っている。非性格的事物はそれ自身に通路をもたなかったから之に就くべき通路は事物以外のものから与えられる外はない。この通路を与えるものが非性格的概念である。この種類の概念は事物の代理者として、事物の性格とは独立に、概念という性格を有たなければならない。心理学的には表象[#「表象」に傍点]と考えられる処の、論理学に於ける所謂概念――論理学的概念――が之であるであろう。この種類の概念は常に論理的構成に於て発生するであろう。その最も純粋なるものが形式論理学乃至数学に於ける概念[#「概念」に傍点]に外ならない。事実このように理論的に構成された概念は人々によって抽象的[#「抽象的」に傍点]と呼ばれているであろう。私は嘗て把握的概念――それは性格的概念を指す――をこの構成的概念から区別した*。
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* 『思想』八〇号「空間概念の分析」〔本全集第一巻所収〕参照。
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例えば数論に於けるイデアールとか、又電子とかは、主として非性格的概念として現われる。之に反して茶碗とか国家とかは主として性格的概念として現われるであろう。少くとも数論自身の内に於てはイデアールは性格をもつことは出来ない、その本質[#「本質」に傍点]が一義的に決定されている。尤もイデアールの哲学的解釈は恐らく性格的であることが出来るであろう、――茲に非性格的概念は性格的概念に変化し得ることが示される。従って又非性格的事物は性格的事物へ変化することが出来る。或る一つの概念は場合々々によって性格的概念とも非性格的概念ともなることが出来るのである。性格的と非性格的との区別には元来明白な限界[#「限界」に傍点]はない、何となれば両者の区別自身が性格的[#「性格的」に傍点]であるのであるから――前を見よ。同じく、物理学乃至化学自身の内に於ては電子概念は性格的でない。ただ哲学の対象となる時それは例えば唯物論――一つのイズム[#「イズム」に傍点]――の根拠として理解されることも出来るであろう。イズムは常に性格的である――後を見よ。之に反して茶碗の概念は多くの場合性格的でなければならない。人々は茶碗と丼とを如何にして限界[#「限界」に傍点]するか、誰が茶碗の本質[#「本質」に傍点]を決定し得たであろうか、併しそれにも拘らず人々は日常、茶碗を茶碗として、丼を丼として性格づけて混同しないであろう。国家が殆んど常に性格的概念であることは、現代に於て最も著しく顕われている。或る人々は之を社会の絶対的な形態として、又は全く社会それ自身として性格づける。他の人々は之に反して、やがて階級の概念によって支配されるべき相対的な社会概念として性格づける。或いは理念の実現として性格づけられ、或いはそうでなくして生産関係の政治的一形態として性格づけられるであろう。
性格的概念は又常識的概念[#「常識的概念」に傍点]と呼ばれることが出来る。常識的概念はどれ程それを学問的に専門的に研究するにしても、その常識性――日常性[#「日常性」に傍点]――を失わない。例えば国家概念――性格的概念としての――は之を如何に学的に取り扱っても依然として日常的概念としての性格を失わない、国家に関する凡ゆる専門的研究の結果はただこの日常性に於て検証されてのみ学問的業績としての資格を得ることが出来るのだからである。之に反して常識的でない概念は、――それは専門的研究に於てしか[#「しか」に傍点]現われないという意味に於てそしてただこの意味に於てのみ専門的概念と呼ばれてよい――、それをどれ程通俗化[#「通俗化」に傍点]しようとも日常的となることは出来ない。例えば電子――之は恐らく常に常識的ではない非性格的な概念であるであろう――の知識が、どれ程一般的に普及しようとも、それであるからと云ってそれだけ電子の概念が日常的となったのではない、電子の存在は凡ての素人にとって実験的[#「実験的」に傍点]に証明され得るであろう、併しただ吾々は電子ではなくして物体を又特に例えば机をのみ日常的に検証[#「検証」に傍点]し得る。――区別は日常性と通俗性との間に横たわる。後者は専門家を除いた限りの素人を予想する、それは科学的研究の進歩と共に進歩する、通俗性の理想――規範――はそれ故結局通俗
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