ても一旦限界が問題となることが出来たが、之と異って全く限界が問題となることの出来ない場合に於ても亦性格は明らかにされ得るであろう。例えば欧州文明に於けるギリシア思想とヘブライ思想との夫々の性格の如きがそれである。或る見方からすれば全文明がギリシア的性格をもち、又他の見方からすればこの同じ全文明が又ヘブライ的性格をもつであろう。性格は限界――この幾何学的なる規定――を有つことなくして、云わば力学的に、否、個性―モナドも亦力学的であると云うならば、化学的に、機能することが出来る。性格は相互に浸透する(この意味に於て又性格は、領域[#「領域」に傍点]とは関係がない。尤もモナドも亦そうである**)。性格概念が限界の概念とは無関係であることが明らかとなったであろう。すでに一般に限界と無関係であるから、性格が最後の限界としての単一者として現われなければならない動機は何処にも存在しない筈である。分割出来ないという性質を持ち出しても、それによっては性格概念の解明に何の変化も起こされないであろう。かくて性格は限界や分割とは何の関係をもつものでもない。そして限界や分割は個別化原理に帰するのであった、故に性格概念は個別化原理からは独立な概念成立の動機を有っているのでなければならない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 性格と常識との関係は重大である。後に之を明らかにしよう。
** ライプニツのモナドの概念は個物乃至個性の概念の最も精練された場合の一つであるであろう。それにも拘らずモナドは遂に個別化原理からの制約を脱却することが出来ない。
[#ここで字下げ終わり]
 人々は個物と個性とを区別せよと云うであろうか。個物は一つの限界概念であり、之に反して個性は、単なる限界概念ではなくして窮極的なそれであり、そして正にその故にこの規定を圧倒するに足るほどの豊富な他の内容を有つ、と云うであろうか。併しそれにしても個性概念は概念成立の歴史に於て、その概念の動機に於て、個別化原理に由来することは否定出来ない。性格概念は然るに、そのような歴史から、そのような動機から、自由である。
 性格という言葉の原始的な意味は刻印[#「刻印」に傍点]である。日常的な具象的事物――凡そ学問の対象としてのみ[#「学問の対象としてのみ」に傍点]存在し得ると考えられるような事物を私は以下考察の外に置く――の性格とは、この事物が有つ[#「有つ」に傍点]、即ちそれに与え[#「与え」に傍点]られた、刻印を指す。事物は例えばAなるものとして[#「として」に傍点]、刻印されて[#「されて」に傍点]、あるのである。同一の事物も様々の刻印を捺されることによって、夫々の異った性格者として[#「として」に傍点]現われることが出来る。同一の行動が或いは賞嘆すべきものとして、或いは唾棄すべきものとして、刻印を捺されることの出来るのが事実であるであろう。性格は今事物の性格であったから云うまでもなく事物それ自身にぞくするのでなければならない、事物が有っている関係を離れて任意な性格を刻印することは許されない。仮にそれを許すとしたならばそのような性格は結局性格としては受け取られないであろう。それは性格概念自身に矛盾するからである。処がその事物それ自身に固有でありながらそれにも拘らず性格は、その事物それ自身から一応離れ得る性格を有っていなくてはならない、同一の事物が様々の性格を有つものとして現われ[#「現われ」に傍点]得たからである。今仮りに事物の性格という概念の代りに事物の本質[#「本質」に傍点]という概念を引き合わせて見ることが有効であると思われる。事物の本質はこの概念それ自身から必然に、事物への固有を意味する。事物Aの本質はαでありBの本質はβであるとして、人々はAとBの関係をαとβとの関係によって考察する事が出来るのである。この場合Aの本質がαとして或いは又[#「或いは又」に傍点]βとして、現われ得るのであってはならない。何となれば本質はなる程事物に就いて人々が[#「人々が」に傍点]発見したものである外はないが、併し又人々によって与えられたという規定をもつのであっては事物の本質の概念ではない。本質は常に、人々によってどう見出されようとも結局に於てはそれとは独立に、事物それ自身に具わっている処の、根本的な性質を意味する。そこで同一の事物Aの本質がαとなって現われたりβとなって現われたり出来るということは――たとい事実上の誤謬として起こるにしても――本質概念自身から云って許されない。本質概念は本質を見出した人々への関係とは独立に、一旦事実上この関係を通過しなければならないが併し結局のテロスに於てこの関係を脱却して、みずからを成立せしめている。それは人々にとって彼方にある。これを押しつめるならば本質は正に一つの物自体[#「物自体」に傍点]――之こそ言葉通りの事物の本質ではないか――概念に帰着する処に特色をもつ。Aなる物それ自身――物の本質――は苟くもそれ自身であって現象[#「現象」に傍点]でない限り、αとしてもβとしても現われることを許されない筈ではないか。処で性格概念は恰もこの点に於て本質概念と根本的に異っている。性格――それは与えられた刻印であった――は常に、人々にとって[#「人々にとって」に傍点]、αとして或いは又βとして現われ得るのでなければならない。性格は之を与える人々への関係を、その結局のテロスに於ても脱却しない処に、特色を有つ。刻印は常に与え[#「与え」に傍点]られるべきものであろう。本質概念の目的は――理念は――人々への関係を切り離す処に、之に反して性格概念の目的は之を最後まで持ち続ける処に、夫々の面目を現わしている。性格は人々への関係[#「人々への関係」に傍点]を含むことによってのみ成立する概念である。刻印――それは与え[#「与え」に傍点]られる――の概念が恰も之を注意せしめるであろう。
 性格はそれみずからに人々への関係を含んでいる。それは人々と事物とを媒介することが出来る。事物は之によって人々にとって通達し得るものとなる、性格は通路[#「通路」に傍点]を有つ。もし本質であるならば人々がそれへ通達するためには何か本質以外のものに頼らなければならないであろう、例えば現象がそれであるであろう。性格は之に反してみずから通路を用意している。人々は性格を性格に於て知ることが出来る。事実、事物の性格は之を理解する人々の性格に相関的でなければならない――後を見よ。それであればこそ性格の概念は第一に人々の――人間の――性格を示すものとして語られる理由があり、吾々が今又それを更に事物に就いてまで拡張して語ることが出来る所以があるのである*。性格を一つの人間的[#「人間的」に傍点]な概念と呼ぶことは誤りではないであろう。尤も何か他の関心から動機せられて人間的と呼ばれるのではない、例えば浪漫的な興奮や道義的な謹厳さからそう呼ばれるのではない。ただ理論的に云ってそれが人々にとっての通路を用意しているからなのである。個性――それは結局個人[#「個人」に傍点]概念から離脱することが出来ない――の概念から性格の概念を区別した吾々は、個性的なるものとして普通掲げられる処の所謂人間的なるものから、吾々の性格概念を自由にしなければならない。併しそれにも拘らず性格は――云わば理論的に――人間的である。も一遍云おう。性格は通路を用意している点に於て一つの人間的概念である。――処で併しかの個性の概念は或る意味に於て人間的な概念で矢張りありながら、このような理論的に考えられる通路を用意しているとは思われない。個性の概念はそれ自身に個性の理解乃至取り扱いの概念を伴わない、それは例えば知識学[#「知識学」に傍点]的に取り扱われることの出来ない概念であろう**。性格は恰も之に反して、常に知識学的な又は多少の注意を怠らずに言葉を使用するとして認識論的な、課題を含んでいる。性格概念はこの意味に於て人間的[#「人間的」に傍点]概念であり、知識学的通路[#「通路」に傍点]を用意している。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 性格の概念を人格的なるものから芸術的なるものへ移したものは、テオフラストスであろう。
** ライプニツのモナドは表象の能力を有っている。併しかかる能力は形而上学的実在の規定であって、知識学的な通路を意味するものではない。
[#ここで字下げ終わり]
 性格は個別化原理から完全に独立であり、そして通路を有っている。私はこの二つの点を指摘して個性概念との混同を防いでおこう。
 さて併し性格とは何か。
 日常吾々が接する具象的な事物は恐らく無限な数の性質を持っているであろう。事物はこれ等の性質の統一としてある。夫々の性質はそれに特有な作用の範囲を与えられている。というのは或る性質は顕著であり之に反して他の性質は著しくない、と考えられる。事物が含む云わば一〇〇の内容を、夫々の性質は幾つかずつ分け占めていると考えられる。かくて例えば神は全知全能という特質によってその内容の大部分を分け占められると考えられる。併し或る事物に就いて何が顕著であり何が顕著でないかは決して事物それ自身だけによって決定され得ることではない。或る視角から視れば甲性質が又他の視角から視れば乙性質が顕著なものとして現われる。他の事物には無くただその事物にしか見出されないような或る性質は――たといそれが微弱であっても――顕著となることが出来、強大な性質であっても、それが多くの事物と共通であるならば顕著でないと考えられることが出来る。又事物の某性質――それが強大であろうと微弱であろうと――を特に注目することによって、その事物の理論的乃至実際的な処理を進めることが出来ると見られる時、その性質は顕著なるものとして見られる。であるからどの性質が顕著であるかは実は、事物それ自身に固有な作用範囲の配分ではなくして、その事物が人々によって理論的にか実際的にか取り扱われ得る通路を媒介とする勢力の消長でなければならないのである。事物の無限の諸性質は之を取り扱う通路に於て、顕著の秩序に並列される。さて顕著なる性質Aは無論、顕著ならぬ性質Bとは別でなければならない。併しそれにも拘らずAはBを――又Bと同じ資格をもつCD……を――代表[#「代表」に傍点]することが出来る。もし事物を言葉通りに具体的に定立しなければならないとすれば、AはあくまでBとは性質を異にする筈であったから、AがBを代表するということは許されないわけであろう。それ故之が許される以上茲に事物の抽象が成り立っているのである。処が事物を抽象することこそ具象的な事物を把握する唯一の途であるであろう。事物の把握を顧みずに、即ち事物への通路を顧みずに、事物そのものを決定し得るならば、抽象しないことこそ具体的であるであろう。処が実はこのような具体的事物は人々がそれへ通達する通路――方法[#「方法」に傍点]――から切り離されている点に於て却って方法的には抽象的であるのである。事物を抽象することこそ具体的な方法である。それ故AがBを代表し得るのは人々が事物を抽象するからであり、そして人々はこの抽象によってこの事物を取り扱う具体的な方法を得ることが出来るのである。代表[#「代表」に傍点]の概念は常に方法[#「方法」に傍点]の概念から要求される。自己自身に安ろうている事物――このような概念は元来哲学的作業仮説でしかない――に於ては顕著なる性質Aがそうでない性質BC……と相隣りして席を占めていると思い做される、之に反して通路に於て把握された事物――人々はかくしてのみ事物を理論し又之を実際的にとり扱う方法[#「方法」に傍点]を得る――に於てはAはBC……を代表し得なければならない。事物の性質AがBC……を代表する時、顕著なるこの性質Aはその事物の性格[#「性格」に傍点]となるのである。代表は方法から要求された。代表者である処の性格はそれ故方法的[#「方法的」に傍点]規定を有つ。――性格はこの意味に於て通路を用意してい
前へ 次へ
全27ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング