イデオロギーの論理学
戸坂潤
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)肖《あや》からぬ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入すれば、
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔E. Durkheim, Les formes e'le'mentaires de la vie religieuse. Conclusion.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
*:注釈記号
(底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)個別者[#「個別者」に傍点]である*。
−−
[#1字下げ]序[#「序」は大見出し]
この書物は、過去一年余りの間に私が様々な雑誌に発表した文章を、略々発表の時期の順序に従って編集したものである。どの文章もそれだけで独立な統一を有っているのではあるが、書物全体が実は、初めから一定のテーマを追跡することによって、それからそれへと次々に展開された諸問題の一系列を形づくっている。それ故この書物を初めから順次に読むならば、個々の文章だけでは気付かれなかったような必然的な統一が、容易に読み取れるだろうと思う。そこにこの書物を出版する理由がある。
ここに取り扱われたものは主に論理[#「論理」に傍点]に就いての問題であると云うことが出来る。ただその論理という言葉が、所謂形式論理学でいう夫とは別であるということは、この書物の名前自身が物語っている通りである。人々は今まで観念の、思惟の、認識の、科学の、論理学の周囲に集っていたように思われる。そして思惟[#「思惟」に傍点]の論理学に就いては、之を論理学以外のものの責任に帰して好いように考えていたのではないかと思われる。併し今吾々にとって必要なのは、思想[#「思想」に傍点]の論理学なのであり、それが「イデオロギー」の論理学なのである。
イデオロギーという言葉を観念形態[#「観念形態」に傍点]という意味に用い始めたのはカール・マルクスの独創に由来するといわれている。従って今云うイデオロギーという言葉はただマルクス主義の理論に立ってのみ、初めて正当な問題となることが出来る。「イデオロギーの論理学」はマルクス主義にのみぞくする。
だが之は社会科学的公式の適用[#「適用」に傍点]ではない、そのことはこれ等の文章に少し眼を通せば明らかである。そうではなくして却って社会科学的公式の論理学的展開[#「論理学的展開」に傍点]でなければならない。之は新しい論理公式[#「論理公式」に傍点]を導来することを目的とする。夫々の文章がそれ故、論理上の問題を解くための公式として利用されるであろうことを、私はひそかに望んでいる。例えば世界観の論争に就いての問題は「問題に関する理論」へ、真理乃至虚偽に関する問題は「論理の政治的性格」乃至「無意識的虚偽」へ、科学階級性の問題は「科学の歴史的社会的制約」及び「科学の大衆性」へ、夫々帰着することが出来るであろう。敢えて譬えるならば、それは一切の民族問題がマルクスの「ユダヤ人問題」の公式に帰着するようなものであるだろう。最初の文章「性格概念の理論的使命」は、之等の公式を導き出すための下準備に外ならない。
初めの方の文章では問題が比較的に無限定な形を取っている、後の方の文章が之を限定するのである。であるから、この書物はまだ之だけの内容では結末を有つのではない。次々に展開する筈の多くの問題が残されているわけである。好意ある読者がこの点に就いて私を誘導して呉れるならば、著者としてそれ以上の報いを私は知らない。私は何を追跡し何を整理すべきであるか。
最後に一言しておきたい。私はかつて旧著『科学方法論』に於て、社会科学に関する科学論を後の機会に語りたいと約束しておいた。その約束は当分果すことは出来ないと思うが、この書物を出版することによって、約束の科学論の序説に代えたいと考える。
この書物を出版するには多くの人々の好意がなければならない。特に私は、恩師田辺元博士と先輩三木清氏との名を挙げようと思う。私の頭を初めてこの方向に向けて呉れた人は後者であり、誠に適切な批判によって私の頭を推進せしめて呉れた人は前者である。直接間接に私に勇気を与えて呉れた少なからぬ友人達の名も忘れることが出来ない。これ等の文章を初めて載せた諸雑誌の編集者と出版を快諾して呉れた鉄塔書院主とへ謝意を表する。
[#ここから2字下げ]
一九三〇・四・一二
[#ここで字下げ終わり]
[#地から9字上げ]京都
[#地から1字上げ]戸坂潤
[#改ページ]
[#ここから大見出し]
「性格」概念の理論的使命
――一つの計画に就いて――
[#ここで大見出し終わり]
性格[#「性格」に傍点]の概念は個性[#「個性」に傍点]の夫と似ているかのように見えるであろう、併し二つは全くその成立を異にした二つの概念である。初めにこのことを決めてかかろう。
吾々が欲すると否とに関らず現に吾々が相続している理論的遺産に於て、最も遍在し最も有力な根本概念は、第一に普遍者[#「普遍者」に傍点]の概念であろう。蓋し一般に理論の構造を形式的に――何か論理的[#「論理的」に傍点]に――見るならば、この概念が中心的な勢力を占めることは当然である。というのは理論の一切の内容はただ普遍者と関係することによってのみ論理的であり得るのである。理論[#「理論」に傍点]の実際的な方法の上での順序は何であるとしても、論理[#「論理」に傍点]の秩序から云うならば、まず第一に普遍者が掲げられ、之から普遍者ならぬものが引き出される[#「引き出される」に傍点]、という形式が具わっている。普遍者に対する普遍者ならぬもの、之は形式的に――何か論理的に――特殊者[#「特殊者」に傍点]乃至個別者[#「個別者」に傍点]である*。特殊者乃至個別者は、理論的遺産の形式から見て、第二に有力な根本概念であろう。併し特殊者乃至個別者は如何にして普遍者から引き出される[#「引き出される」に傍点]か。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 人々はすぐ様ヘーゲルを連想してはならない。ヘーゲルの論理学は、従ってその普遍者と特殊乃至個別者は吾々にとって、より根本的な特別の関心を要求する。
[#ここで字下げ終わり]
弁証法によるか演繹法によるか、それとも問題提出の仕方を全く逆にして、帰納法によるか、などを決めようとするのではない。そのような方法[#「方法」に傍点]は、論理に関する理論の又は単に理論の、手続きに属するから、前に示された通り、今の問題とは関係がない。そうではなくして、論理[#「論理」に傍点]の――理論[#「理論」に傍点]のではない――秩序に於て、普遍者から特殊者乃至個別者がどのようにして引き出されるか、を吾々は問うている。之を引き出す機能をもつ媒介者は個別化原理[#「個別化原理」に傍点]に外ならない*。普遍者はそれ自身が個別化――之に加え又は之から差し引く――されることによって特殊者乃至個別者となる、と云うのである。個別化が目的とする終点は個物又はそれがもつ個性[#「個性」に傍点]と呼ばれる。個物[#「個物」に傍点](個性)の概念は、第三の根本概念として普遍者に対して反対的に働きつつ、従来の理論一般を形式的に支配しているであろう。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 個別化原理が時間であるとか空間であるとかは今は顧みない。之を形式的に理解すべきである。例えばドゥンス・スコトゥスのそれ。
[#ここで字下げ終わり]
論理家とも呼ばれるべき傾向の人々にとっては普遍者が、之に反して所謂生命哲学者達にとっては個性が、尊敬すべく愛着すべき根本概念であるかのように見える。前者にとっては普遍者は疑うべからざる課題であり、後者にとっては個性が凡ての問題の解決を約束する合言葉であるかのように見える。蓋し両者は理論に於ける好話柄であるように見える。或る人々は如何なる思想家の思想に就いても普遍者を、他の人々は如何なる思想家の思想に就いても個性を、専らテーマとしようと欲する。かくして例えばプラトンは普遍者の、アリストテレスは個性の、宗家であるかのように解釈せられる、等々。この場合、普遍者は個性に関係づけられ、又個性は普遍者に関係づけられ、そして、ただそうしてのみ人々の問題となるのである。特に、個性は、ただ個性と普遍者との関係に於てのみ、問われ得るのである。個性概念は従って常に個別化原理と共に――普遍者への関係に於て――理解されなければならないものである。
個別化原理が事実、時間乃至空間として与えられ得たことを吾々は注意しよう。この場合時間乃至空間を一般的に云うならば、観念的であるにせよ現実的であるにせよ何か一般に外延的なるものにぞくすることを、夫は意味するに外ならない。この外延的なるもの――それは連続であるが――の上に於て、即ち之を一つの原理として、限定[#「限定」に傍点]されたものが、恰も個物(個性)の最初の規定を云い表わす。この場合個物(個性)は連続的なる外延者の限定として、限界[#「限界」に傍点]を有つものとして、現われる。個物はこの限界によって他の個物から区別[#「区別」に傍点]せられ、この限界に於て他の個物に連続[#「連続」に傍点]している。事実人々は或る事物を個物として知ろうと欲する時、即ちそれがもつ個性を多少なりとも明らかにしようとする時、その事物と他の事物との連続を仮定した上で、最初に両者の限界を見出し、かくて両者の区別を与えることによって目的の第一歩を達したものとするであろう。個物(個性)は常に限界[#「限界」に傍点]を与え得られることを以て、その最初の概念規定とするのである。次に、仮りにこの個別化原理が、個物と個物との間隙を埋めていた当の連続を否定したとして見よう。残るものは断続的な原子である。個別化原理は原子[#「原子」に傍点]に至って働きを停止する。原子(A−tom)は分割し得ざるもの、もはや個別化し得ざるものを意味し、そしてこれこそが個物(In−dividuum)であるのである。かくて個別化原理の終点に於て、個物(個性)の概念は原子[#「原子」に傍点]として、分つべからざる単一者として(時には又モナドとして)窮極的に現われる。
個物の概念が、従って又個物のもつ個性の概念が、常に個別化原理と共に――普遍者への関係に於て――しか理解されない所以が之である。個別化の原理に於て、個物(個性)は他との限界[#「限界」に傍点]を持つものとしてまずあり、そして窮極に於ては原子[#「原子」に傍点]としてある。
性格[#「性格」に傍点]の概念は然るに、個別化原理とは独立な成立を有っている処にその特色を示している。今それを明らかにしよう。
二つの事物の限界[#「限界」に傍点]が与えられない時に於ても、二つの事物の性格は夫々明らかであることが出来る。植物と動物との限界は決して正確に与えられ得ないにも拘らず、即ち両者を区別するに充分な徴標が見出し難いにも拘らず、それを理由にして動物と植物との夫々の特色が不明であると云うならば、それは少なくとも常識の忠実な告白ではないであろう。吾々は事実、両者の性格を夫々――常識的に*――知っており、又その限り両者の区別を、云うならば概略に於て[#「概略に於て」に傍点]知っているのであって、日常生活にとってはこの概略さで充分であり、又この概略さに止まらなければ日常生活は支えられないであろう。ただこのように概略に於て性格を理解することによっては、動物と植物との限界が少しも与えられないというまでである(実は与えられる必要がないのである)。動物と植物との関係に於てはそれにし
次へ
全27ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング