実としての虚偽から――理想としての真理からではない――吾々は今出発する。吾々は真理に関する問題を却って、虚偽に就いての問題として意識する。
 人々は愛すべき又哀れむべき、同情すべき又悪むべき虚偽に於て生きている。吾々は今、何か宗教的な意識に立ってそう云うのでは必ずしもない。そうではなくして正に理論的[#「理論的」に傍点]乃至論理的[#「論理的」に傍点]な意識に立って、愛すべき又憐むべき、同情すべき又悪むべき虚偽を事実眼にする、と云うのである。

 人々は、誤謬[#「誤謬」に傍点]と虚偽[#「虚偽」に傍点]とを区別して次のように云うかも知れない。誤謬は無意識の内に犯した誤りであり、之に反して虚偽とは意識して犯した誤りである、と。誤謬と知りながら之を訂正せず又は故意に真理を抂げることが虚偽であると考えられているであろう。誤謬は誤謬と気付くことによって無論直ちに消滅するのが健全な場合である。併し独り誤謬ばかりではなく、虚偽であっても、このような――意識的誤りとしての――虚偽は、実に容易に的確に虚偽として露顕する、もしくは自らの虚偽自身に飽いて虚言者は自発的に実を吐くことが出来るであろう。何故かと云えばこのような虚偽は――意識して犯されたる誤りとしての虚偽は――とりも直さず意識(良心)の分裂であり、どのように鈍い良心(意識)であってもこの分裂の張力を痛みとして感じることが出来るであろうから。意識して犯されたる誤りとしての、この種類の虚偽は云わば度し易い。吾々が今問題とするのは、このように度し易い意識的[#「意識的」に傍点]虚偽ではなくして、正に虚偽として自覚されない無意識的虚偽[#「無意識的虚偽」に傍点]、虚偽としてではなく却って卓越した真理としてさえ意識され得る処の執拗な虚偽なのである。その誤りが無意識であるからと云って、決して之は単なる誤謬[#「誤謬」に傍点]として見過されてはならないものに属する。その構造は至極複雑であり、その性質は極めて執拗なのであるから、正に虚偽の名こそそれに適わしい。
 人は云うかも知れない。無意識的虚偽は、意識を明確に馴《じゅん》練することによって、良心を鋭くすることによって、意識の閾の内に繰り入れることが出来、そしてこの鋭くされた良心の力を借りて屈伏せしめられ得るであろう、と。併しこの希望は実際には多くは裏切られるのを常とする。虚偽が単なる誤謬ではなくして虚偽である以上、それは――例えば主張として――飽くまで自らを保存する意志を常に有つのであり、その意志を実現するためには、おのずから、良心を自分の身方に引き寄せようとするのが必然であるから。尤も良心は元来――従って今の場合には特に――公平であることをこそ、その本分とするかのようであるから、容易には虚偽の甘言に乗りそうにもないと思われるかも知れない。併し実は、良心とは他方に於て確実さ――Gewissen――を意味する、それは一定の意識内容をそのものとして落ちつかせる性質をその場合持っている。それ故人の虚偽が――無論虚偽とは意識せずに――提出する一定の意識内容は、却って良心が一臂の力を貸すべく乗り出す絶好の材料を提供するものでさえあるのである。かくて良心はそれが良心であるが故に、却って無意識的虚偽の保証人となり弁護者となることが出来る。無意識的虚偽は良心を買収するのに成功することが出来る。カトリック教徒も良心を持ちプロテスタントも同じく良心を有つ。欧州大戦は、主としてドイツとフランスとの二つの良心――祖国愛という――の名に於ける同じ良心同志の血闘として意識されはしなかったか。かくて人々は今や良心を――この甘き良心を――あまり信じることを許されない。実際自らの良心を疑うことこそ却って良心的ではないのか。無意識的虚偽は所謂良心に会ってすら消滅しない程、それ程複雑であり執拗である。

 理論乃至論理に於て、何がこのように複雑にして執拗な無意識的虚偽であるか。併しながら、無意識的虚偽の一つ一つの場合に就いて語ることは、事柄の性質上出来ることではない。吾々は無意識的虚偽が、原理的[#「原理的」に傍点]・原則的に[#「原則的に」に傍点]、即ち組織的に[#「組織的に」に傍点]、一定の形態[#「形態」に傍点]を有つことが出来る場合についてだけ語ろうと思う。一定形態をもつ組織的な無意識的虚偽、それを今検出して見よう。――単なる個々の虚偽[#「個々の虚偽」に傍点]をではない、そうでなくして組織的な虚偽形態[#「虚偽形態」に傍点]をである。
 フランスの優れたる病理学的心理学者 Th. Ribot は※[#始め二重括弧、1−2−54]La logique des sentiments※[#終わり二重括弧、1−2−55]に於て、この問題に対して極めて有効な代表的な示唆を与えている。
前へ 次へ
全67ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング