フ選択は勝手ではない、問題は常に性格的である。
問題は性格的[#「性格的」に傍点]である。然るに前に、問題は相対的[#「相対的」に傍点]であった。性格的なる問題が相対的であるとは何を意味するか。性格的とは歴史的運動に寄与することであった、歴史の運動を目前に展開せしめて之を観想することではない、そうではなくして歴史的運動それ自身に参与するのである。歴史的運動へのかかる現実的な参与は吾々にとってはただ現代[#「現代」に傍点]に於てしかあり得ない。故に一般に性格的とは歴史的社会の現代性を指すことに外ならない。但しかかる現代性はかの永遠なる今[#「永遠なる今」に傍点]ではない、アウグスティヌスが懺悔録を書きつつあった時にも、私が今この文章を書く瞬間にも、そこに逍遙しているものは同じ資格の永遠の今であろう。現代性は之に反して将来に於ける永遠の今でもなく又過去に於ける永遠の今でもない、現在に於ける今の今なのである。今の今である現代は、他の時間部分に対しては、特有の歴史的な資格――現在という――を持っているであろう。かかる特有な歴史的資格が性格的なるものの必要なる一部をなすのである。さて性格的な問題はかかる歴史的特権[#「歴史的特権」に傍点]をもつ問題である。それは現代の問題である。現代の問題は或る過去の又は将来の時代の問題と、同一平面上に、同列に、並べられることは出来ない。其処には単なる時間上の位置の差ではなくして理論上の秩序の差があるからである。之を並列的関係に水準化し、相対化[#「相対化」に傍点]すことは許されない。もし之を許すとしたならばどのような問題を選ぶかは全く人々の勝手となるであろう、そのような人々は勝手に或る時代に生活している者と想像して空想的に又回想的に夫々の問題を採用することが出来ると考えるであろうから。かかる歴史的無政府主義に陥らないためにこそ、問題は性格的でなければならず又そうあるのであった。さてそうすると性格的なる問題は、問題の絶対性を裏書きするかのように見えるかも知れない。併しもう一遍言おう、性格は現代性を意味する、永遠の今ではなくして今の今を。現代が、時間を超越する意味に於て永遠化せられない限り、性格も亦相対的であることを止めることが出来ない。現代は次の時代に移り行く、現代が最後の日ではない。併しそれであるからと云って、現代に生活する人々が勝手に歴
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