ナある、と考えられる理由は問題の概念それ自身からは、何処にもない。之は吾々の今までの分析から必然である。もしそれにも拘らず人々がそのような意識を知らず知らずにせよ持つならば、そこに支配しているものは理論ではない。何となれば理論ならば問題であるべく、問題であるなら相対的問題しかない筈であったから。そうではなくしてそこに支配するものは理論以外のもの――倫理(宗教的又は道徳的・甚だしきに至っては審美的)――の外ではあるまい。そして理論の最大の任務は常に恰も、倫理への批判であるであろう。問題を絶対化するもの――一般に立場がそれであった――は、往々にして倫理的分子である場合を注意すべきである。絶対的問題と倫理的予言とは往々相携える。実際、形而上学的体系――それは立場に基いた――の内容は、諸価値[#「諸価値」に傍点]の自然的秩序を云い表わすことが屡々であるであろう。かくしてのみ当然に、或る問題は Inferno に、そして他の問題は Paradiso に、住むことが出来る。
 人々は云うであろう、それではどのような問題を選ぼうとも人々の勝手であるのか、そうすれば問題の無政府主義しかないではないか、そうすれば理論の妥当性はどこにあるのか、と。併し問題の選択は少くとも問題を選択[#「選択」に傍点]することであって、問題を勝手に[#「勝手に」に傍点]採用することではないであろう。それに、もしどのような問題でも勝手に採用されてよいならば、元来問題の問題がある筈はない。問題の選択が問題になる筈がないのである。問題の選択[#「選択」に傍点]そのものが今は問題である。何となれば問題は一定の――但し或範囲に於て形式的な――客観的標準に従って、選択され又されねばならないのだから。何がその標準であるか、曰く、性格的[#「性格的」に傍点]なる問題が選ばれなければならず、又選ばれるのである*。
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* 性格が何を意味するかを私は「性格概念の理論的使命」という文章に於て述べた。性格の概念は個性の概念でもなく又類型の概念でもない。それは一方に於て知識学的通路[#「通路」に傍点]であると共に、他方に於て常に歴史社会的必然性――歴史的運動――の契機である。性格的とはそれ故、歴史的運動に於て必然的位置を持つ処の、歴史的運動に寄与する処の、歴史的使命[#「歴史的使命」に傍点
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