はないと云うのではない、ただ之を外にして、更に重大な問題らしい問題・発見されるべき新しい問題・がある、と云うのである。既成的問題をどのように発展させ変容させ――甚だしきに至っては捏ね回し――て見た処で、その性質上から云って、この発見されるべき新しい問題は出て来ない、既成的問題[#「既成的問題」に傍点]に対しては、この新しい問題は突発的問題[#「突発的問題」に傍点]と見え又見えるべきであろう。既成的問題は歴史的(社会的)に与えられ[#「与えられ」に傍点]、之に反して突発的問題は与えられない[#「与えられない」に傍点]所以である。問題をその資格に於て突発的と既成的とに一応区別することが必要である。
例を或る古典的哲学に採ろう。之は後の学界に多くの問題を提供する、人々は之によって「問題を教えられる」ことが出来る。この時、たとい人々が自分で之に於て問題を見出すと考えたにしろ、結局発見された問題は、この限られた一定の古典が有っている問題の領域の外へは出ない。従ってこの発見は結局新しい問題の発見ではなくして与え[#「与え」に傍点]られた問題の発見でしかない。かかる問題の系列が恰も一群の既成的問題[#「既成的問題」に傍点]なのである。さて処がこの哲学が有力であればある程、それから惹き出される問題は多数であり、その範囲は多方面であるであろう。そうしてその結果、この哲学が一切[#「一切」に傍点]の重要な問題を提供し尽すかのような錯覚を人々が起こすであろうことは、人々の展望が余り広く又高くないのが普通である限り、自然である。このような錯覚によって、この系列に属さない新しい問題が、それが正に既成的問題でないというだけの理由から、即ちそれが自分に対して突発的であるというだけの理由から、偶然な非本格的な末梢的な、時には廃頽的でさえある問題であるかに見えることは、必然である。歴史的伝統の道を外れたものとしての外道として、既成の権威に肖《あや》からぬものである限り権威なきものとして、そのような問題は見做され易いのが事実である。然るに実は、問題は問題としての性質上、それが既成的である時こそ却って、その概念の堕落を意味することさえあるべきなのである。何となれば提出され終った問題は或る意味に於て既に解決の約束済みであるのであって、然るに問題が問題である点はそれが正に提出されようとする発生期に存するの
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