に理論出来ないであろうか。もし出来るとするならば、それは性格概念なるものがこの種類の理論に於て性格的[#「性格的」に傍点]に機能し得る証拠であるであろう。
 最後に注意すべきは、形式論理学[#「形式論理学」に傍点]――それは非性格的である――をば、それが形式性を持つにしても持たないにしても、性格的なるものにまで拡張しなければならない、ということが必然的に要求されることである。何となれば吾々は已に概念[#「概念」に傍点]を二つの種類に区別することによって、性格的概念――それは従来の形式論理学に於ける概念とは異る――を有ち得たからである。そして之は又判断[#「判断」に傍点]乃至推論[#「推論」に傍点]に就いてもそのまま行われるであろう。理解――性格的理解を他から吾々は区別した――とは形式論理学に於ける判断乃至推論に相当するであろうから。真理の概念も亦性格的なるものにまで及ぼされなければならない。恐らく吾々は性格的な論理法則を必要とするであろう。処が恰も吾々にとって最も興味あるものは形式論理学に於ける虚偽論でなければならない。と云うのは虚偽は形式論理学に於ても必ずしも非性格的ではないであろう。形式論理学に於ける真理の法則に較べて、その云わば虚偽の法則が、如何に切実であり有用であるかを人々は注意しないであろうか。虚偽そのものが真理に較べてより根柢的な動機を有っているからである、と考えられる、誤り得ることは人間的であるから、と考えられる。虚偽は真理よりも性格的であり易い性質をもっているのである。そこで形式論理学が一般に非性格的であるにも拘らず、虚偽論だけは性格的虚偽を取り扱い得たわけである。非性格的論理学は虚偽論に於て性格的なる論理学への出口を示しつつあるであろう。吾々は性格的論理学[#「性格的論理学」に傍点]を要求する権利を有つかのように思われる。
 なお、知識学に於て、認識論に於て、又科学論に於て性格の概念は果すべき多くの理論的使命を担っているかのように思われる。
 性格概念は理論一般にとって性格的な使命を有つ。
[#改段]


[#ここから大見出し]
「問題」に関する理論
     ――主に立場[#「立場」に傍点]概念の批判として必要なる分析に限る――
[#ここで大見出し終わり]


 理論[#「理論」に傍点]は一般に、或る意味に於て、常に論争と相伴う性質を有っている。
前へ 次へ
全134ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング