して、それ自身の学問性・専門性を有つ筈であったから。理解は性格的である時と非性格的である時との区別をもつ。事実人々はこの二つの理解の区別を日常知っているであろう。例えば数学的に秀でた頭脳が必ずしも歴史的感覚に於て優れず、日常の事物を把握するに明敏な頭脳は往々にして論理的に無能である場合が見出されるのは少なくない事実である。
 理解の形態の相異は、その理解が目的とする理解の理想状態の相異に外ならない、というのは二つの理解が夫々の理念を異にすればこそ両者は相異るわけである。理解の規範――カント的名辞を用いてよいならばアプリオリ――が、性格概念を規準として二つに分たれる。性格的真理と非性格的真理[#「性格的真理と非性格的真理」に傍点]。数学乃至自然科学の理想とする真理――学問性[#「学問性」に傍点]――は後者であり、之に反して歴史科学乃至社会科学――本来はそして哲学も亦――の理想とする夫れは前者であるであろう。性格的真理を追求する学問の学問性――性格的学問性――に於ては、常に事物の解釈[#「解釈」に傍点]が支配的であることがその特色となる*。蓋し事物の解釈はただ性格によって又性格に於てのみ初めて成り立つことが出来るであろうから。処で性格的なる解釈による学問性は常に主義[#「主義」に傍点]となって現われなければならない。かくて性格的真理は常に主義として現われる。人々は不幸にしてこの消息を非科学的にも次のような言葉を以て云い表わそうと欲する。学問と体験とは一致しなければならない、学問は人格の修養に役立つべきである、等々。恐らく数学者は彼の体験で方程式を解き得なければならず、又彼は方程式を解くことによって人格の向上を計り得なければならぬのであろう。
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* かくて例えばリッケルトに於て、歴史科学は価値への関係づけを以て叙述の方法としなければならないと考えられる。一般に、自然科学と歴史科学との限界は実は学問的真理の二つの形態の性格的区別に帰せられるべきである。
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 性格的概念は、性格的理解・性格的真理・性格的学問性の概念を伴う。之に対するものは夫々の非性格的なるものとして区別せられる。性格概念を指摘することによって性格的なるものと非性格的なるものとを区別する時、概念・理解・真理・学問性・等々の夫々の概念が、より明らか
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