於て――直接に直ぐ様ではない――動きのとれない結果に陥るであろう。人々はここに至って初めて性格の誤っていたことに気づくのが普通であるであろう。事物の性格を択ばせるもの、それを例えば理論的計画であると云ったが、この理論的計画は個人の任意の成心によって立てられるのではなくて、正に、歴史的運動――その事物の・またその事物がぞくする歴史的全体の――によって口授されるのでなければならない。今や云うことが出来る。歴史的運動の車輪の転回に順い又之に寄与するもののみが性格的である、歴史の車輪を逆転する立場に於ては之に反して性格が失われる。後の場合の性格は誤られたる従って性格でない処の性格であるであろう。
歴史的全体が描く歴史的運動の曲線の各点に於て、性格は切線として理解せられる。或る一点に立ちながら而も他の点に固有な切線の方向を追求しようとするならば、この性格の誤解は時代錯誤[#「時代錯誤」に傍点]となって現われる。というのは時代こそ代表的全体に外ならないであろうから。時代々々に固有な切線の方向に力を加えることによってのみ、歴史的運動の車輪は最も的確に有効に能率的に回転せしめられることが出来る。この回転を機能せしめるものが夫々の事物の性格に外ならない。一切の事物は夫々の時代の切線の方向に於て性格づけられる。そして時代のこの切線は又、恰も、時代の性格[#「時代の性格」に傍点]と呼ばれているであろう。蓋し事物――歴史的部分――の歴史的運動は終局に於て時代――それは最も代表的な歴史的全体である――の歴史的運動に帰着する筈であったから、事物の性格は又終局に於て時代の性格に帰着するのが当然であるであろう。
事物の性格は、人々が事物に達する通路としてあることを、その特色とするのであった。事物の性格は人々の性格に相関的である。そこで人々[#「人々」に傍点]の――個人[#「個人」に傍点]の――性格が問題となる。如何なる性質を或る事物の性格として択ぶかは一方に於て、人々の夫々の性格に依存すると考えられる。そして人々の性格は人々によって云わば任意であり得るように見えるから、事物の性格も亦任意のものとして把握されそうである。処が他方すでに事物の性格は時代の歴史的運動によって終局的に制限されていなければならなかった。従って事物の性格は任意のものとして把握することを許されない筈であった。個人の性格は時代
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