桝Rである。であるから、アカデミー化は、実は難解化を意味するのではない。もし何かの理由でアカデミー化が非難さるべきならば、人々はそこで実は難解化を非難しようとしているのではない。理論の叙述の仕方[#「叙述の仕方」に傍点]に関してアカデミー化を非難するのはその場合の問題ではないのである(それならばアカデミー化ではなくして衒学である)。もしこのようなアカデミー化に対立するものが大衆化[#「大衆化」に傍点]だと思うならば、大衆化とは、科学的無責任をしか意味しない。夫は大衆化の完全な――かの民主主義的な――歪曲であるであろう。
 そうでなくして、アカデミー化とは科学が持つ問題提出[#「問題提出」に傍点]の上の一つの態度の名でなければならないのである。アカデミーに於ては科学のもつ問題は、全くアカデミー自身のもつ伝統の内からのみ発生する。このような諸問題は併しながら、この伝統の内でこそ、その必然性・解決の必要・を有つが、それであるからと云って、この伝統の外へ出てまでも、問題[#「問題」に傍点]としての資格を保てるとは限らない。処がアカデミーにとっては、問題と云えば取りも直さずかかる伝統的問題のことであり、之を解決して了えばもはや解くべき問題は無い。であるから、一定の科学が元来如何なる問題を解くべき使命を持って必要とされたかは、ここでは忘れられても好く、ただ大事な唯一の関心事は、逆に如何なる問題を選べば一定の科学にぞくし得るかである(之は哲学の問題であり彼は社会学の問題である、など。そのような問題は元来どちらの問題でもないに相違ない)。科学が事物を解決し得るか否かはどうでも好く、ただ人が何か一定の科学に従事する口実さえあれば好い。茲では事物[#「事物」に傍点]が(科学的に)研究される代りに、ただ科学[#「科学」に傍点]が(従って当然非科学的に)研究される、のを見ることが出来る。――それ故アカデミー的に真理[#「アカデミー的に真理」に傍点]であればある程、理論はその真価に於て[#「真価に於て」に傍点]却って虚偽[#「虚偽」に傍点]であることが出来る。何故なら、アカデミー化は問題の伝習化[#「問題の伝習化」に傍点]であり、従って之をアカデミー以外のものに対照して云えば問題の高踏化[#「問題の高踏化」に傍点]に外ならず、それは要するに問題の主観化[#「問題の主観化」に傍点]のことである
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