凾ナあるとは云っても、之を優越する機能はない、素人達は専ら専門家達の与える材料を取捨選択[#「取捨選択」に傍点]は出来ても、専門家達の業績の科学的価値――真偽――に容嘴することは出来ないだろう、から。処が大衆は凡ゆる意味に於て優越なる、従って科学的真理の判定に於ても亦優越なる、集団である筈であった。素人は大衆ではない、報道化は、であるから大衆化である理由がない。
第三。常識性の概念は吾々を、実際化[#「実際化」に傍点]の概念へ導いて行くかも知れない。科学的研究の主体として、もし人々がプラグマとしての事物を選ぶならば、それが科学の実際化ということである*(之を実際生活に関する啓蒙と呼んでもよい)。前の報道化に於ては、科学の一定内容を取捨選択するものは常識の水準であるには相違なかったが、併しなお科学は、それよりも先に、それとは関係なく、それ自身の内容を選択する権利を保留することが出来た。処が今度は、科学自身が行なう筈であったこの内容選択までが、常識によって代って取り行なわれる場合なのである。従ってこの場合、常識はその限り専門を優越するかのようである。――だがかかる実際化と雖も決して大衆化[#「大衆化」に傍点]ではない。科学はそれが実際化されると否とによって、科学的真理を変更すべき何の理由も有たないから。科学的真理の保持者は科学自身[#「科学自身」に傍点]にあるのであって、科学の実際化[#「科学の実際化」に傍点]にあるのではない。それ故、プラグマとしての実際的事物に応対する人間・実際家[#「実際家」に傍点]は、結局、理論家[#「理論家」に傍点]の業績の科学的価値に容嘴する権利を持ち合わさない。実際家の集団は理論家の夫を優越し得ない。かかる実際家達はそれ故大衆ではない、実際化はであるから大衆化とは喰い違った言葉である。
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* 歴史的――日常的――事物を、歴史的[#「歴史的」に傍点]に見ずして、単に実用主義的[#「実用主義的」に傍点]に見るならば、それがプラグマという概念である。
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かくて科学の大衆化[#「大衆化」に傍点]は、通俗化・報道化・実際化――要するに普及化[#「普及化」に傍点]――である理由が無かった。併し之は寧ろ初めからそうありそうなことであったのである。何故なら、大衆化とは階級化[#「階級化」
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