メは後の連関にゆずり、今は前者だけを問題としよう。通俗化が社会的に云って教育者と被教育者との対立の上で行われたに対して、報道化は専門家[#「専門家」に傍点]と素人[#「素人」に傍点]との対立の上で行われる。或る一つの科学部門に於て専門家である人も、他の科学部門に対しては素人である外はないから、茲では専門家だけが何かの科学者であるのではなくして、素人も亦一人の科学者であることが出来る。通俗化の場合に於ては、社会に於ける被教育者は全面的に低度の知識水準を有つわけであったが、報道化に於ては、素人は或る部門に於てだけ水準が低いのであるから、一つの科学部門の専門家Aと素人Bとを、夫々その全面性に於て観察すれば、一般に、AとBとは社会的に同格の知識水準を占める可能性があると考えねばならないわけである。それ故素人の社会に於ける総体は専門家の社会に於ける総体に対して、同程度の水準を持つものとして対立することが出来る。世間[#「世間」に傍点]がアカデミー[#「アカデミー」に傍点]に対立する、素人は専門家に向って、象牙の塔を出ることを忠告さえしようとする(だからこの素人はかの威された[#「威された」に傍点]素人ではないことを注意せよ)。茲では常識一般[#「常識一般」に傍点]が専門一般[#「専門一般」に傍点]に対して太刀打ちが出来ると考えられる(無論或る一つの[#「一つの」に傍点]部門に就いては常識は専門に対して太刀打出来ないが)。であるからジャーナリズムは無論アカデミー内部に行われるのではない、そうではなくして、アカデミーと世間との、専門と常識との、対立に於て初めて行われるのである。人間が素人としてもつ常識性は専門性――科学性――とは独立な独自の原理を意味しているのであり(今の場合の常識――常識一般――は決して単に科学前の未熟な知識を意味するのではない)、科学がそれ自身の原理の代りにこの原理によって支配される時、それが科学の報道化となるのである。科学の報道化によって科学は常識の在庫品として整理され、人々は一切の専門的知識へのこの在庫品を通じて連絡を保とうとする。かくて人々はその所謂常識を豊富にすることが出来るわけである(報道化はであるから、一つの啓蒙ではあるが、もはや教育的啓蒙ではない)。――だが明らかにこの報道化は大衆化であることは出来ない。何となれば素人達の集団は専門家達の集団と対
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