A吾々は圧倒性を持つ多衆をこそ問題とすべき歴史的現実的動機を持ち、特に圧倒性の反対物としての多衆を問題とする歴史的動機を現在有たなかった、から。それであるから多衆概念の矛盾の、この方向――圧倒性の止揚を通じての――に於ける止揚は、多衆概念の形式論的[#「形式論的」に傍点]・可能論的[#「可能論的」に傍点]・カズイスティック的[#「カズイスティック的」に傍点]分析の上で可能であり、それは併し現実的には、多衆概念自身の[#「自身の」に傍点]止揚に外ならないのである。概念の形式的救済が夫の現実的破滅を意味する処の、かかる現実的弁証法は、実際多くの形式主義的理論家が逆用する常套手段であるであろう。彼等は事物――例えば国家・階級等々――の形式的定義[#「形式的定義」に傍点]から出発し、そうすることによって実際には、その事物の性格[#「性格」に傍点]を否定することに成功するであろう。今が丁度それである。
大衆を語るに際して吾々の問題となった限りの多衆概念は、それ故、それが有つ低質性(平均性)の止揚の方向に於てのみ、その矛盾を止揚され得る。この概念の現実的動機、この概念が今使用され・取り出され・問題にされる歴史的条件、から云って、そうなければならない、と云うのである。
多衆の圧倒性はただ多衆の非組織化によってのみ止揚された、そしてただ夫のみがその低質性を強度ならしめた。そこで今度は、この低質性を止揚するためには、多衆の組織化[#「組織化」に傍点]が必要で又充分な筈である。多衆が組織化される、――初めは無意識的に、次いで意識的に――、その時の多衆はもはやかの民主主義的な単なる多衆ではない。それは取りも直さず、組織化[#「組織化」に傍点]された、又は組織化されるものとしての、多衆となったが故に。多衆が組織化される時、その圧倒性は反対物に転化するどころではなく、却って顕揚されることは云うまでもない。統制[#「統制」に傍点]と計画[#「計画」に傍点]とを持った圧倒性が茲から出現する。この統制と計画とを導き入れることによって、圧倒性に随伴した多衆の低質性こそは、反対物へ転化せしめられるであろう。と云うのは、茲で平均性――低質性はその語尾変化であった――は、もはや単なる平均性[#「単なる平均性」に傍点]ではない、何故なら、平均性は平均性に違いないがそれは切り下げられたる平均ではなくして、
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