得るかは、例えば K. Mannheim, Ideologie und Utopie に明らかである。又科学が政治的[#「政治的」に傍点]で在り得る理由に就いては、「論理の政治的性格」を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
科学の大衆性という問題は、大衆が現代[#「現代」に傍点]に於て持つ歴史的使命を条件とする時、初めて必然的な問題となる。そうでないならば、この問題は、哲学の空想的な一例題、としての価値しか有たなかったかも知れない。
人々は大衆[#「大衆」に傍点]乃至大衆性[#「大衆性」に傍点]――文芸其の他の――を口にすることを好む。併しこの概念自身が可なり曖昧であるようである。そして多くの場合そうあるように、曖昧な概念が一つの合言葉として通用している内、夫は至極安価な戯画的な使い道を見出す。曾ては文化[#「文化」に傍点]の概念に就いて、文化生活・文化住宅の類がそうであった。同様にして今や、大衆文芸・大衆作家の類を産むに至ったのを吾々は見る。大衆とは何等か、甘やかされた俗衆か、思い上った愚衆ででもあるかのように見える。恐らく人々はかかる大衆に対しては、多少とも調子を下げて応対しなければならないようである。
処がそれならば何故、このように調子を下げて応対せられるにしか値しない大衆が、現にそれ程問題[#「問題」に傍点]とならねばならないのか。もし大衆が、無価値なものでしかないならば、それを問題とするに値しないだろうからして、問題となるからには之は積極的な価値を有つ筈であろう。人々のかかる大衆の概念はそれ故実は、大衆を語る処の、自らを大衆から区別する処の、非大衆[#「非大衆」に傍点]――反大衆――の側に於ける大衆概念なのであり、そして而もそこには直ちにこの概念の一つの根本的な矛盾が暴露されているのである。大衆に対するこの非大衆は、その意識の伝統の必然性によってはかの大衆を低く評価しながら、外部的な圧迫に強制されては、之を高く評価せねばならぬ喜ばしからぬ義務を意識しているからである。所詮この大衆概念は、大衆が自ら[#「自ら」に傍点]を意識するための概念ではなくして、却って非大衆が自らを夫から区別して意識しようがための概念であるだろう。之は非大衆的[#「非大衆的」に傍点]な大衆概念に過ぎない。大衆の大衆的[#「大衆的」に傍点]概念――大衆的理解――は之に反して、必然的な
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