る。思想的言語的表現法を有つ文芸についてはそうなのだ。
思想のシステムが露骨に見えはせぬかという心配は、日本の文学の現状では少し先き走りすぎた越権でさえもあるように思われる。まず第一に心配すべきは無思想と無体系――世界を把握し実在を捕捉する――であり、第二に心配すべきはその思想と体系とが充分に独自な撚りをかけられているかどうか、つきつめて考え抜かれているかどうか、である。この点を単純に、思想の「具体化」とか「血肉化」とかいう常識で置きかえてはならぬ。思想の具体化とはまず第一に考え抜くことと撚りをかけることだ。システムを発動させることだ。この関門を通らずに、いきなり血肉化とか何とかいうのは、無思想と無体系との自己弁解と云われても仕方があるまい。思想の具体化ということは思想を徹底的にクロスさせて限定し切ることだ。そうしないと思想の血肉化などは不可能だ。――つまり公式の活用によるシステム・思想の発育ということが、文学の存在理由の第一をなすのである。こういう事情を科学的と呼ぶのである。
創作に於てもクリティシズムに於ても、独り文芸のクリティシズムに限らずクリティシズム一般に於ても、公式とシ
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