論家でもシステムを持たずには批評はなし得なかったが、併しではどんなシステムを持っているかということを、ただの外見からは見出すことの出来ない場合の方が多い。ばかりでなく批評家当人自身さえそう問われて困ることは珍しくなかっただろう。この場合には、システムが意識[#「意識」に傍点]されていないのである。意識化されたシステムを偶々その瞬間に持っていなかったのである。システムがなかったのではない。
思想のシステムが透けてみえないことは、何か文学的な美徳であるというような迷信が流布している。だが、思想のない場合にも、思想は透けて見えないものだ。そして本当に自覚していないような思想は、思想ではない。思想は一種の労作か労働なのだから、どんなに天来の思想でも必ずその思想的なポテンシャル・エナージーを自覚しているものだ。自覚しないように考えられるのは、作家なら作家みずからその思想を説明する別な言葉を持ち合わさぬというまでで、そのためには評論家というものが助けに出て来るのだ。だから本当を云うと、透けて見えない思想などというものは、無思想と同じことなので、システムが見えないものは実は思想でも何でもないのであ
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