しても科学主義という言葉は、すでに立ちおくれのした受身のものの吐く言葉のようだ。なぜと云うに、之は文学主義という非難の言葉に対する善後策として出て来たもので、私なども数年前から文学主義の指摘を続けているが、最近になってやっとその善後策としての科学主義という買い言葉が通用し始めるようになった。
元来文学主義と云うカテゴリーは、批判主義とか実証主義とかいうカテゴリー見たいな意味では、之まで存在しなかったのである。ゴーリキーの文学論の中などに一二ヵ処出ているようだが、その意味はごく一通りのもので、単に文学至上化や文学絶対化というようなことを指すに過ぎないらしい。だからこそ之は批判のレッテルとしては新鮮なのだ。処が、之に対抗する科学主義というレッテルは、それ自身少し寝呆けた言葉であるばかりでなく、そういう言葉自身が近代思想史の内にすでになくはないものだ。例えばル・ダンテク(二十世紀の生物学者である)のシャンティスムなどがそれで、而もこのシャンティスムは云わば十八世紀や又寧ろ十九世紀の俗流唯物論に甚だ近いものだから、現在の文学主義に対抗する野次としては間が抜けているのであるが、併しそれだけではなく、なまじ歴史的に歴然たる存在を有った言葉だけに、カリケチュアの指摘に役立てるためには、利き目が薄いのが遺憾だ。元来、既成の言葉を使って諷刺することは、事態の新しさに適応する力を失った時に多いことで、憂鬱な人間は誰でもハムレット、誇大妄想の人間は誰でもドン・キホーテと云った類で、大抵は隙だらけの特徴づけに終らざるを得ない。既成の言葉がアダ名となるのはやや微温的に過ぎるのであって、寧ろアダ名が自称となる位いでなくてはならぬ。「印象主義」の場合のようにだ。処で吾々は科学主義のレッテルを貼られても、之を自ら称すべく居直る必要などは認めない。吾々は自分を特徴づけるもっと由緒のある言葉に富んでいるからだ。文学主義で何が悪いか、俺は立派な文学主義者だ、などと居直らざるを得ないのが、処で文学主義者の方なのである。
さて公式主義呼ばわり主義者にとって、なぜ公式というものがそんなに恐ろしいか。公式というのは勿論科学公式のことだ。社交の公式や服装の公式のことではない。だから公式を一旦容認すれば、その背後につめかけている膨大な科学(自然科学ばかりでなく社会科学もである)の大群を容として迎えねばならぬ。科
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